2020年7月23日木曜日

中国の戸籍制度と都市部における格差の関係




はじめに

 改革開放からの35年間で農村から都市へ移動した中国人民の数は何億という規模でした。しかし実際には彼らの大半はまだ都市によって提供される社会サービスを十分に受ける事が出来ておらず、不自由な生活をしていると言わざるを得ません。都市に住む人々の間に大きな格差があると言う事です。  
 確かに、都市部での工場労働をはじめとする近代的な労働形態が増え、そこに流れ込んだ移住労働者達の仕事はある意味”都市化”されたのですが、彼らの生活そのものは依然都市的と言うには程遠いものなのです。
 今回は中国の都市が抱えるこうした社会問題を中国特有の戸籍制度に焦点を置いて見て行きます。

中国の戸籍制度の歴史

 こうした格差が生じる主な原因として中国の戸籍制度、即ち住民登録制度があります。端的にいうと、この制度の下では中国の農村部の人々は住まいを自由に選べないのです。今の形の戸籍制度は1958年から始まりましたが、元を辿ればこれは11世紀の宋王朝の時代に制定された保甲(ほこう)制度と言う住民登録制度を起源に持ち、ベトナム、朝鮮、日本などのその他のアジアの国々も後にこれに似た制度を導入します。  
 保甲制度と現代の戸籍制度の違いは、後者の方がより厳格で制限が強いものであると言う事です。それもそのはずで、現代の中国の戸籍制度は共産主義の本家本元である旧ソビエト連邦で人民の移動を制限する為に用いられていた国内パスポート制度の仕組みを取り込んだものだからです。それに比べれば昔の保甲制度は移動制限というよりは国勢調査や徴税をその目的としていたので、制限も弱かったのです。
 かつての中国国民党政権下ではこの保甲制度が人々の住所を管理していましたが、内戦での共産党軍の勝利によってこれは廃止され、中華人民共和国による厳格な戸籍制度が新たに導入される事になったのです。

1958年からの戸籍制度と都市成長の抑制

 1958年以降はこの制限的な戸籍制度によって各中国人民が登録住所を割り当てられました。そして一旦割り当てられると、この登録住所を変更することは非常に難しかったのです。つまり住む場所がほとんど固定されてしまっていた訳です。 
 こうして戸籍制度が中国人民を二種類に分類するようになります。この二種類とはつまり農村の人民と都市の人民の事です。毛沢東の時代には、この戸籍制度が特に厳格に強制されており、田舎から街へ移動する事はほとんど不可能でした。そして登録住所以外で仕事を得る事も非常に難しかったのです。つまり農村の農民は定められた場所でずっと農業に従事するしかなかったという事です。  
 実際に中国ではこの戸籍制度のせいで1960年から1978年の間に全体に占める都市人口の割合が20%から18%に低下する事になります。こうして1960年代と1970年代に都市成長を抑制した事は、現在の中国の農村人口が世界第2位の経済大国とは思えないほどに多い事の主な原因とされています。

1980年代の戸籍制度の弱体化

 しかし、こうした強制的な戸籍制度も徐々に衰退する事になります。1980年代に入り、海岸沿いの都市群のあちこちに工場が建設されるようになり、それらが都市周辺の田舎から労働者を吸い込み始め、労働者の移動が本格化したのです。そしてこうした労働者の都市への流れは次第に都市周辺からだけではなく、そこから何百キロも離れた地方からも起きるようになります。
 国はこうした労働者の移動を奨励していました。何故なら当時は改革開放時代という時代背景もあり、役人達は中国の経済成長を彼らの目標に掲げていたので、もはや古い戸籍制度などで労働者の移動を制限する事は国益にそぐわなかったからです。

今尚残る移住労働者に対する制限

 こうして労働者達は、1960年代、1970年代に比べれば随分と自由に農村から都市へ移動できる様になりました。しかし、問題はまだありました。彼らは都市への移住の際に彼らの家族まで連れて来る事は出来なかったのです。移住労働者の家族は相変わらず農村で暮らさなければならなかったという事です。何故なら役人達が人口増加による都市のスラム化を恐れ、労働者達がその家族まで連れて来る事を許可しなかったからです。  
 この反動からか、1990年代と2000年代には都市へ無許可で家族を連れてくる移住労働者が増加しました。勿論この場合、彼ら移住者家族は社会サービスを利用する事は出来ませんでした。つまり移住者家族が怪我や病気をして病院に行っても医療処置を受ける事はできず、またその家庭の子供達は地元の公立学校に合法的に通うことも出来ませんでした。さらに、彼らは正規の住居を借りたり購入したりする事も困難でした。従って近代的とは言い難い劣悪な住居に住むしかなかったのです。 

まとめ

 現代の中国の戸籍制度とそれが労働者達の生活を如何に拘束して来たかを見てきました。
 1950年代から始まった強制的な戸籍制度は1978年末からの改革開放と同時に徐々に衰退していきます。1980年代になって都市部で工場が興ると農村の労働者達は自由に都市へ移動する事が出来る様になりました。しかし彼らは家族まで連れて来る事は許可されませんでした。このせいで1990年代、2000年代に都市へ無許可に家族を連れてくる労働者が増え、それに伴う移住労働者家族の生活水準の低さが問題になりました。
 こうした都市における根強い格差がしばしば中国国内の人々が中国の都市化を”部分的な都市化”と呼ぶ主な理由なのです。








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