2020年9月30日水曜日

地方政府と中央政府の住宅バブル対策および住宅市場の二層構造




はじめに

 中国都市部の住宅市場は一見バブルの様に見えますが、実際にはかなり堅実なものです。それは都市部市民の収入が住宅価格よりも早く上昇していたり、また住宅購入の際に高い頭金(持家住宅で20%、投資用住宅で60~70%)が課されていたりする事からも分かります。アメリカ合衆国のサブプライム問題の時、この数値は5%程度と言う低さだったのです。
 また2010年からは中央政府が住宅価格が過剰に上昇しない様に市場介入するようにもなりました。今回はこうした事に加えて中国の地方政府や中央政府のどの様な政策が住宅価格の暴落を防いでいるのかを見ていきます。さらに中国の都市部の住宅市場の抱える巨大な問題である住宅市場の二層構造(高級住宅市場と低級住宅市場の分断構造)についても触れようと思います。

売れない住宅をどうするか

 近年都市部ですさまじい勢いで新しい住宅が建てられてきた中国。しかし住宅が売れなければ需要不足という事になり、住宅価格が値崩れを起こしてしまいます。 そうならない為に、中国の不動産開発者や地方政府は売れない値段の高めの住宅の目録については改築などをして低所得者向けに改めて売りに出すと言う様な戦法を用いています。そうする事で、数年以内には適切な購入者が現われるそうです。 現に、中国では高級住宅の供給が過剰な一方で、低所得者向けの手頃な住宅の供給については慢性的に不足しています。そこで地方政府が空室の状態の住宅団地を買い上げ、強い需要のある低価格の公営住宅に改築して低所得者向けに売りに出しているのです。

中央政府による住宅市場の監視

 中国の中央政府は住宅市場が中国経済にとって如何に重要であるかを熟知していると同時に、住宅価格の暴落が中国経済に及ぼすであろう悪影響について非常に鋭敏に感じ取っています。その為、それが起きないようにする為に積極的に住宅市場に介入してきました。投機的な住宅価格の上昇を意図的に制限してきたのです。その努力のおかげか、これまでに住宅価格の暴落は防がれて来ました。
 住宅市場を安定したものにする為にはもっと強硬な介入が必要であるとも言われていますが、住宅民営化が始まってまだ20年足らずという事もあり、市場参加者たちもまだまだハングリーという事でしょうか。政府もそれ程強く住宅価格の上昇をコントロール出来ていません。

バブルかどうかよりも重要な事

 中国都市部の住宅ブームがバブルであるか否かという事が気がかりになりますが、今の所価格の暴落は起きていませんし、それが起きない為に十分な対応を中央政府も地方政府もそれなりに取れている様です。
 そして大事なのは、これがバブルかどうかと言った抽象的な議論よりも、むしろ中国の住宅市場における明確な問題や、市場が成長する事により生じる歪などに焦点を当て、政府の政策がどの様にしてそれらを解決しようとしているのかを語る事の方なのです。
 ご存知の通り、中国では都市戸籍を持つ世帯が不動産売買で莫大な利益を得ている一方で、農村出身者にはそうした市場参加の権利、或いは財産権が与えられていません。こうした農村と都市の間の格差が住宅民営化の歪として根強く残っているのです。そして悪い事に、政府が行っている事は結局、新たな問題や歪を発生させることでこうした既存の問題や歪を解決しようとしているだけなのです。農村における戸籍問題やそれに伴う財産権の問題について抜本的な解決と言うのが為されていないという事ですね。

住宅民営化の歪としての住宅市場の二層構造

 中国の住宅市場で大きな問題となっているのは、市場が都市戸籍を持つ高所得者向けのものと、これを持たない低所得者向けのものとに分断されてしまっている事です。これはしばしば“二層構造の住宅市場”として問題視されてきました。
 どの様にしてこうした構造が生まれたのかと言うと、そもそも1998年以降の住宅民営化が比較的高価な住宅を政府の援助や格安の政府設定価格(内部価格)を利用して購入できた幸運な都市戸籍所有世帯と、純粋に苦労して働いて溜めた貯金をはたいて住宅を購入しなければならなかった不幸な階級の世帯(非都市戸籍所有世帯)との、大きく分けて二つの階級を生んだ事が原因なのです。
 この二層構造の市場で何が起こっているのかについてはまた次回詳しく解説しますね。

まとめ

 一見華やかな中国都市部の住宅ブームがどの様にしてその堅実さを保っているのかを、中央政府や地方政府の政策を通して見てきました。例えば余って売れない住宅については地方政府が公営住宅に改築して低所得者向けに売りに出していました。また中央政府としては特に2010年以降、住宅市場に介入する事で投機的な住宅価格の上昇を制限していました。
 また、重要な事は中国の住宅ブームがバブルかどうかをひたすら議論する事ではなく、その住宅市場で起きている最大の問題である高所得層向け市場と低所得層向け市場とに分かれた市場の“二層構造”の問題に焦点を当て、そうした歪に対して中央政府や地方政府がどの様に対処しているのかを詳しく見ていく事である事を確認しました。






2020年9月28日月曜日

都市と農村をバランスよく改革する事の難しさ




はじめに

 中国では1978年末の改革開放以来、農村部の経済を優先した趙紫陽と万里による政策が1980年代にまずあり、その後1989年に天安門事件が起きて以降は、その原因となった都市の不満を払拭するために江沢民による都市優先型の改革が2000年頃まで続き、それに続く2003年からの胡錦濤-温家宝政権では再び農村の社会サービスやインフラを充実させるなどの農村重点型の政策が進められてきました。
 今回は改革開放からの35年間、こうした農村ひいきと都市ひいきの間で中央政府の政策が揺れる様子についてより詳しく見ていきたいと思います。

農村優遇と都市優遇のバランスを取る事の難しさ

 中国の改革期の歴史を見れば、農村の利益と都市の利益を政策において同時に大事にする事が如何に難しいのかがよく分かります。
 趙紫陽と万里による改革初期の10年の政策は過度と言ってもいいほどに農村を優遇したものでした。
 続く1989年から2003年の改革(主に江沢民が指導)は都市重点型のものになり、代りに農村部は停滞する事になります。
 そしてその後の胡錦濤と温家宝の10年はそれ以前に比べればバランスはより取れていましたが、この政権による一連の農村の救済措置は将来の中国における都市中心の開発計画を練り上げ、それに期待を寄せていたロビーグループ(圧力団体)などから「生ぬるい」などと批判される事になります。

胡錦濤政権は都市改革と農村改革をバランスできたか?

 胡錦濤政権は社会的セーフティーネットを拡充したり、また農産物の政府による買い上げ価格を上げて農夫の収入を上昇させたりする事で農村の人々の生活を豊かにしようと努めましたが、農村問題に関心を示さない都市部エリート達からはそうした政策は時間の無駄と思われていたのです。前項でも見た様に、胡錦濤以前の政権の政策を見れば、中央政府が改革開放以来の25年間、農村と都市のどちらか一方にしか尽くせていなかった事がかなり明確に分かります。
 そうした背景の中で胡錦濤政権はやや例外的なのかもしれませんが、都市部から見ればこの政権の10年はまるで政治空白の様に評価されており、農村問題にだけ取り組んだという位置付けです。それでも、天安門事件の時の様に都市の不満が爆発する様な事態にはなりませんでした。勿論それはこの前政権である江沢民時代に既に都市が急激に豊かになっていた事も原因でしょうが、都市からのあからさまな反発を招く事にならなかった胡錦濤政権は今までの政権の中では最もバランスが取れていたと言えるかもしれません。

今後の中国農村部の人口

 この様にバランスを取ることが困難な都市部と農村部の改革ですが、今後はどちら寄りで改革が進む事になるのでしょうか?胡錦濤政権の10年が都市からあまり評価されていない事を考慮すれば、おそらくまた暫く都市化に重点を置いて政策が進められるでしょう。
 都市化が進めばそれだけ農村人口も仕事を求めて都市部へ移住する事になるので、結果皆が豊かになれる様にも思えますが、中国では都市戸籍を持たない農村労働者は都市部で十分な社会サービスを受けられなかったり、劣悪な住居に住むしかなかったりと、今のところ都市戸籍所有者との生活水準の格差が顕著です。また移住労働者の家族は都市へ移り住む事を原則許可されていないので、農村に残らなければなりません。
 その結果、おそらく今から20年後の中国の人口分布も全人口の30%、およそ4億人がいまだに地方に住まわされているという形をとるだろうと推測されています。中国の政策立案者たちは移住者の大量流入による都市のスプロール化やスラム化を恐れて中々戸籍制度を緩和あるいは撤廃しようとしません。それでも農村と都市の間の格差を何とか是正しなければならないという緊張感から断続的に農村の社会・経済を改善しようとしてきたのです。

今後の農村改革の重要課題としての土地保有権

 胡錦濤政権の時代に健康保険や年金など、近代的な社会サービスが中国の農村に導入されました。またこの時期、農産物買い上げ価格の引き上げが行われ、農村の収入も上昇し、都市収入と農村収入の比率が3倍以下にまで下がりました。格差が縮まりを見せたという事です。この様にして以前に比べれば中国の農村も随分と暮らしやすくなったと思われますが、それでもまだ都市部との富や収入の格差は極めて大きく、今後もこれを解消すべく既存の制度を改革していく必要があります。
 中でも重大なのが農夫たちの土地の所有権の問題です。一般に、中国の農夫は土地を所有はしていません。代わりに長期の契約による使用権を持っているだけなのです。つまり不動産に関する財産権を農夫達は持っていないのです。土地を持っていれば人に貸したり、時期を見て市場価格で売却したりする事で大きな収入を得る事もできるでしょうが、中国の農夫達にはそれが出来ないのです。一方の都市部の家庭は不動産に関する完全な形の財産権を持っています。都市と農村におけるこうした制度の違いがそのまま都市と農村の富や収入の不平等の最も大きな原因になっているのです。
 1978年から1983年の間、趙紫陽と万里の政策の下で初めて農地が集団統制から解放され自由化された時、農家は一般的に特定の土地の一区画を1年から3年の間耕作する権利のみ与えられました。改革開放以降、人民公社が解体され、耕作が各農夫世帯によって自由に行われる様にはなったものの、それもあくまで契約制であり、当初からその土地を財産として活用する事は出来なかったのです。今後どのように農夫の財産権が改革されていくかが喫緊の問題になっています。

まとめ

 中国では改革開放以来、農村と都市の両方をバランスを取って改革する事はほとんど出来ていませんでした。それは都市部エリートなどの都市に住む有力者たちの意見に気を配りながら政策を決めて行かなくてはならない中央政府の宿命なのかもしれません。実際に1980年代に強引に農村経済を立て直そうとした趙紫陽は政権の座から追放されてしまいますし、2000年代に農村政策を推し進めた胡錦濤も都市部からの批判を受ける事になります。
 1978年以来、まず農村改革を10年、その後都市改革を14年、その後再び農村改革を10年と、改革は農村か都市のどちらか一方の利益に偏重して来ました。こうした力の入れ方をよりバランスさせることが今後の課題ですが、いずれにせよ、最も重大な問題は農夫達にきちんとした財産権が与えられていない事でした。これが都市と農村の間の収入や富の格差を生む大きな原因だったのです。






2020年9月27日日曜日

中国の住宅市場が堅実と言える理由




はじめに

 中国都市部の住宅ブームは一見するとバブルの様に見えますが、実際にはこれをバブルと呼べるだけの根拠はありません。それは中国の住宅民営化が2000年代初頭にようやく実現されたため、市場における住宅の価格変動のデータがまだまだ乏しいという事も一因です。
 また2000年代から最近までの中国都市部の住宅購入の多くは、都市部家庭が不動産売買によって得た棚ぼた収益によってなされた場合も多く、アメリカ合衆国などの他国と違い、仕事によって得られた正規の収入と住宅価格の比率が不明瞭なのが中国の住宅市場の特徴です。
 今回は他国との比較が難しいやや特異な中国の住宅市場が具体的にどの様な根拠で堅実と言えるのかについて、データと共に見ていきます。

中国都市部の住宅価格の暴落は起きない

 2007年、言わずと知れた先進国であるアメリカ合衆国で住宅価格の急落によるいわゆるサブプライムローン問題が起きました。
 一方の中国の住宅市場と言うのは新興市場であり、一見向こう見ずな成長を続けている様にも思えますが、中国で都市戸籍を持つ家庭の住宅購入の大きな柱になっていたのが格安の政府設定価格による購入促進でした。なのでアメリカ合衆国などの完全な自由市場と単純に比較する事は難しいのです。つまりアメリカ合衆国の二の舞になってしまうなどとは決して簡単には言えないのです。
 中国都市部の住宅価格がいつ大暴落するかを予測しようとする事は、必然的に中国以外の国における住宅市場と中国の住宅市場を比較する事を要求しますので、結局は不可能だし、出来たとしてもあまり役に立たないのです。逆に、はっきりと中国の住宅価格は暴落しないと言い切るだけの根拠はあります。以下でそれらについて述べたいと思います。

中国の住宅購入者の収入の上昇と住宅購入の頭金の高さ

 中国都市部の住宅価格が暴落しそうもない事は、まず第一に住宅購入者達が非常に堅実な人たちである事からも分かります。彼らは特に大きな借金をしているという事も無く、過去十年間でその世帯収入は住宅価格よりも早く上昇してきました。そしてこの収入の高さに合わせて持家住宅(持ち主自身が住む住宅)購入の際の法的な頭金もある程度高く、20%と定められています。これによって自分の収入や財産と住宅価格とを比較せずに向こう見ずに住宅を購入する様な事は起きにくくなっているのです。
 また、中国のほとんどの都市では投資用不動産としての住宅購入の際には頭金として60~70%が定められているのです。従って余程金銭的に余裕が無ければ不動産投資などには手が出せない様になっているのです。
 さらに、2010年には中国政府は住宅価格の上昇を抑制しようとする事にも取り組み始めました。それ以降、通常のアパートの平均価格は平均世帯収入の9倍から7倍にまで落ち込んだのです。この7倍と言うのは日本や韓国、台湾などの東アジアでは普通の高さです。この様に政府が市場に簡単に介入できてしまう所が強いリーダーシップのある共産主義国家ならではの利点なのかもしれません。

アメリカ合衆国における頭金の低さとサブプライム問題

 サブプライム問題の当事国だったアメリカ合衆国では住宅購入の頭金は5%以下でした。頭金が5%という事は、金銭的に乏しい家庭でもローンを組んでかなり簡単に住宅を購入できたわけですが、その代わりに債務が95%もある事になります。その為、住宅価格が僅かでも下落すると住宅購入者の純資産(購入した住宅も含める)はこの巨大な債務によって圧し潰され、たちまち一文無しの状態に陥る危険がありました。
 この様に、実際にはとても住宅を購入できない様な収入層の人々がこの頭金の安さに魅せられ次々に住宅ローンに手を出して行き、住宅価格の暴落と共にローンが返済できなくなり破産する事になってしまったのが2000年代のアメリカ合衆国のケースだったのです。

今後も絶えない中国都市部の住宅需要

 中国の住宅価格が暴落しそうにないもう一つの理由として、今後も中国都市部で起こるであろう人口増加があります。次の15年から20年余りで2億人ほどの増加が起きるだろうと言われています。この2億人というのは外国から見れば国家規模の数ですが、14億もの人口を抱える中国では未だに全人口の半分が農村を含む地方に住んでいますから、そこから都市部への移住が起きる事を考えれば、この規模の人口増加はむしろ自然と言うべきなのです。
 これだけ大きく人口が増加すればそれが源となり、住宅に対する巨大な需要のパイプが確立される事になります。そうなればまた安定して住宅市場は存続できる事でしょう。

まとめ

 中国の住宅価格が暴落しないと言える理由を解説してきました。まず、住宅購入者達が経済的に堅実である事、そしてその世帯収入が住宅価格よりも早く上昇しているという事、またそれに合わせる様に住宅購入の際の頭金もアメリカ合衆国の場合に比べるとかなり高く設定してある事が分かりました。これによって中国の住宅市場がアメリカ合衆国のサブプライム問題の時の様な危うい住宅購入が生まれにくい市場環境である事が分かりました。
 また、2010年には中国政府による住宅価格抑制への介入もあり、どうやら政府がバブルにならない様にきちんと市場を監視し、価格をコントロールできている様でした。
 さらに、今後も都市部で起こるであろう人口増加が将来の都市住宅への需要を約束してくれている様でした。






2020年9月21日月曜日

胡錦濤政権の農村政策に対する世間の評価




はじめに

 中国で2003年に誕生した胡錦濤(こきんとう)政権は、1990年代に入ってから久しく停滞していた農村部の改革を再開します。
 胡錦濤政権は農産物の政府による買い上げ価格を引き上げる事で農夫たちの収入を増加させ、また農村における道路や水道などのインフラ整備を促進する事で農村をより住みやすい場所に作り変えたりしました。この様にして農村の生活を困難なものにしていたいわゆる農村三問題(農業、農村、農夫の問題)を解決しようと努めたのです。
 そして2006年以降、この政権の下で農村に住む人々もベーシックインカムや年金、健康保険を利用できるようになりました。2000年代、中国農村部ではこの様に近代的な社会サービスが次々に導入され、農村の生活が急激に改善されていったのです。
 今回はこうした胡錦濤政権の農村政策の成果が世間でどの様に評価されているのかを、絶対貧困率の改善など、その数値的な成果に焦点を当てて見ていきます。

2000年代半ばから始まった農村の生産高の向上

 1990年代に都市部の改革が進む一方で停滞を余儀なくされた農村の経済は2000年代半ばから再び活性化されます。農村における穀物の総生産高は1999年には年間5億トンだったのが2003年には4億3000万トンと大きく下落してしまいます。
 しかし2003年に胡錦濤政権になってから、再び上昇を見せるようになります。2013年には6億トンを超えるまでに上昇したのです。
 また、こうした農村政策の成功は農業的付加価値(生産や加工に手間をかけて高められた農産物の価値)にも反映されるようになります。1997年から2003年の間年間3%以下だった農業的付加価値の実質成長率は続く10年間で年間5%にまで加速する事になります。こうした成果よって農夫たちの収入も大きく改善されました。

胡錦濤政権へのマイナス評価

 農村部の生活を改善する事に成功した胡錦濤政権ですが、世間からはこうした政策に否定的な意見もあります。
 こうした意見は主に農村問題に無関心な都市部のエリート層のものですが、彼らは国家主席の胡錦濤と首相の温家宝は軟弱で無責任なリーダーであり、そのおかげで中国経済は2003年から2013年の10年間に渡って停滞したのだと主張するのです。彼らに言わせればこの10年は“無駄な10年間”だったという事です。
 都市部から見ればそう映るのかもしれませんが、農村に焦点を当てればこの政権の偉業は先述の様に輝かしいもので、農業生産高の下落を上昇に転じさせ、都市部と農村の両方における総合的な社会的セーフティーネット(義務教育無償化、ベーシックインカム、年金、健康保険など)を構築したのです。

胡錦濤政権へのプラス評価

 都市部を中心に胡錦濤政権を非難する人もいた事を前項で解説しました。ここからは恐らく誰もが共通して高く評価するであろう胡錦濤政権の成果について見ていきましょう。それはずばり中国における絶対的貧困の削減でした。
 中国は改革開放が始まった1978年末から2011年までのおよそ30年間に貧困を削減する事に努めてきました。中国国内で、世界銀行が絶対的貧困と定義づける水準で生活している人の数は1981年には8億4000万人(中国人口の84%)にも上りました。それが1990年には6億8900万人(同61%)、2002年には3億5900万人(同28%)そして胡錦濤政権時代の2011年には8400万人(同6%)にまで減少したのです。
 もちろん、胡錦濤政権単独の成果ではありませんが、中国における貧困の削減に2000年代のこの政権の農村政策が大きく寄与した事は間違いないでしょう。
 貧困問題が解決に近づけば、それだけ中国都市部も安心して地方からの労働者を受け入れやすくなるでしょう。そうすれば、結局は都市部の経済成長も促進される事になるはずです。その事を考慮すれば、都市部エリート達も胡錦濤政権が行ったの様な公共的な政策を高く評価するのではないでしょうか。彼らも中国の農村が抱える豊富な人材には関心がある筈です。貧困を解決する事はそうした人材を活用する機会を都市部に与えてくれるでしょう。

農村における今後の課題

 中国国内の絶対的貧困が過去40年間で大きく削減されてきた事は確かですが、実際にそれを可能にした要因の大部分は農村の人々が都市部の高賃金の職業で働く様になった事でした。つまり農村自体の暮らしはまだまだ改善の余地があるという事なのです。何せ現在でも中国の人口の半分は地方に暮らしているのですから、農村の生産性やその付加価値を高めていくことは今後も相変わらず重要であり続けるでしょう。

まとめ

 胡錦濤政権の農村政策の成果や、それに対する世間の評価を、農村における今後の課題も含めて見てきました。農村では農村収入が上昇し、また社会サービスが導入され生活の基本が確立された事で、それまでに改善されてきた絶対的貧困率は胡錦濤政権下で一層削減される事になりました。
 一方で都市部のエリート層は農村の暮らしを改善する政策などではなく、都市の改革を1990年代同様に継続して欲しかったらしく、その為この政権に対する彼らの評価は低い様でした。しかし膨大な人材を抱える中国において、農村の貧困問題を解決する事は回り回って都市部経済にもよい影響を与える事もまた事実の様です。






2020年9月17日木曜日

手頃さ指数で見る各国の住宅市場




はじめに

 中国の住宅市場では住宅価格の上昇が2003年から10年以上に渡って続いてきました。この原因として住宅民営化の初期において住宅価格が極めて低かった事、そして住宅供給量が極めて少なかった事がありました。その為、中国都市部の住宅価格が上昇を続ける事は自然であり、これはバブルではないと言う事が出来そうなのです。しかしこれについてはまだ考察の余地があります。
 そこで今回はアメリカ合衆国など、中国以外の国々で住宅が一般にどれ位手頃な買い物なのかを見ていくことで、中国の住宅市場の特性(はたしてバブルなのか)をより詳しく解説していきます。

アメリカ合衆国における住宅の手頃さ指数

 住宅民営化以降、中国都市部に住む世帯にとって、住宅の購入はとても簡単でした。それは彼らが政府による様々な支援や政府設定の格安の住宅価格を利用して住宅を購入できたからです。一方でそれら都市部の住宅の市場価格は上昇を続ける事になります。例えばですが、もしこの市場価格が世帯収入の10倍もの価格にまで膨らめば、それはバブルと呼べるかもしれません。しかしそれでも住宅民営化が行われてまだ間もなく、自由市場における十分な過去のデータを持たない中国ではバブルと正常の境界を明確に決める事が難しいのです。
 それではアメリカ合衆国など、中国以外の先進国では世帯収入に対してどの程度まで住宅価格が上昇すればバブルと呼ぶ事が出来るのでしょうか?一般に、「住宅価格 ÷ 世帯収入」で計算される“手頃さ指数”、つまり世帯にとっての住宅の購入のしやすさ、を見る事でバブルかどうかをはっきりさせる事が出来ます。この値が高ければ高いほどバブルの性質を帯びてくるという事です。勿論、国によってこの“手頃さ指数”は広く異なる値を示しており、一概に信用できる値ではありませんが、市場の状況を判断する上で考慮する価値はあると思います。
 アメリカ合衆国の住宅市場では、住宅価格の中央値が世帯収入の中央値の3倍以上になると、それは“危険”な状況と判断され、警告サインが発動します。バブルの危険があるという事です。この3倍と言う値は人口密度の高いアジアの国々の指数と比べると随分と低いものです。3倍程度で警告サインが出ると言うのは、アメリカ合衆国が、土地が安く、まばらにしか人が住んでおらず、財産としてあまり住宅を重宝しない国であることを示唆しています。この国の投資家たちは不動産以外にもさまざまな富の蓄え場所を持っているのです。金塊などはその一例でしょう。
 またアメリカ合衆国は住宅購入者に対し政府が莫大な支援を提供する国としても知られています。住宅を比較的購入しやすい国なのですね。

韓国、台湾の住宅の手頃さ指数

 それでは中国に極めて近い韓国、台湾などのアジアの国々ではどうでしょうか?これらの国々はアメリカ合衆国に比べて遥かに人口密度が高い事が大きな特徴です。また、韓国、台湾の政府は住宅購入者へ金銭面で支援する事が殆どありません。またこれらの国々では貴重な富の蓄え場所として不動産を非常に重視しています。その為、通常平均して住宅価格が世帯収入の6~8倍もあります。手頃さ指数=6~8という事です。
 アメリカ合衆国の住宅市場がたった3倍でも警告を発している事を思えば、この値がどれだけ高いかが分かります。それでもこれは韓国、台湾の住宅市場にとってはバブルなどではなく、極めて正常な値なのです。国によってどの値が正常であるかがこれだけ違うという事です。

中国の住宅の手頃さ指数

 では最後に、中国の住宅の手頃さとはどの位のものなのでしょうか?勿論、中国もアジアの一国ですから、先述の韓国、台湾の住宅市場の性質を同様に持っているでしょう。
 しかし、中国の場合、考慮すべきもう一つの特性があります。それは中国の都市世帯が2000年から2010年の間に住宅民営化によって棚ぼた的な莫大な収益を得ているという事、そしてこの期間、住宅の大部分は通常の世帯収入によってではなく、この住宅売却による棚ぼた収益によって購入されたという事です。つまり、近年の中国都市世帯の世帯収入と言った時に、その内訳として純粋に仕事によって得られた収入に比べ、不動産売買によって得られた棚ぼた収益が非常に大きく、その為これを先述の「手頃さ指数 = 住宅価格 ÷ 世帯収入」の式に入れて手頃さ指数を計算する事は方法としてあまりに無鉄砲なのです。
 少なくとも2000年から2010年の間の幾らかの年については“通常の比率”を計算する事が難しく、従ってバブルかどうかを判定する事も困難なのです。

まとめ

 アメリカ合衆国、韓国、台湾、中国について、その住宅購入の手頃さを具体的に指数で見てきました。
 アメリカ合衆国では「住宅価格 ÷ 世帯収入」の値が3倍以下で正常という事でした。これに比べて、韓国や台湾ではこの手頃さ指数が6~8倍でも正常という事が分かりました。
 こうした差は、その国の政府の住宅購入者への支援の程度の違いや、その国における不動産の財産的な重要度の違いなどが反映されていました。アメリカ合衆国では土地が安く、住宅購入支援が充実しており、また不動産以外の物を富の蓄え場所にしている投資家が非常に多かったのです。
 そして中国については、世帯収入を不明確にしていた住宅民営化による棚ぼた収益の為に、この手頃さ指数と言うのは不明瞭なものでした。自由市場として見るにはまだまだ謎が多い国という事でしょうか。








2020年9月16日水曜日

胡錦濤政権による農村政策と格差の是正




はじめに

 都市部の不満が爆発した結果引き起こされた1989年の天安門事件以降、中国の経済改革はそれまでの農村重点型のものから都市重点型のものへと移行していきました。
 江沢民(こうたくみん)国家主席の指導の下、都市部では私企業の進出が促進され、商品価格も次々に自由化されます。また労働者の都市への移動制限も緩和されます。1990年代、これらの政策によって中国都市部が急激に成長する事になりますが、一方で農村はこうした自由化がなされず、その経済は停滞したままでした。これにより、都市-農村格差が拡大していきました。
 今回は1990年代に広がりを見せた都市-農村格差が2000年代に入って是正されていく様子を胡錦濤(こきんとう)政権の政策に焦点を当てて見ていきます。

胡錦濤政権の誕生とその農村政策

 2002年後半から実権を握るようになった胡錦濤国家主席と温家宝(おんかほう)首相による胡錦濤政権は、それまでの都市ひいきを是正し、農村収入を増加させ、都市と農村の様々な格差を解消しようと努めました。中国では古くから、都市と農村の格差の原因となっている農村三問題(農業、農村、農夫の問題)と呼ばれる農村特有の問題が議論されてきました。胡錦濤政権は広範な政策を展開し、この農村三問題に真っ向から取り組みました。
 政府は2006年に、それまで低く抑えられていた、政府による穀物の買い上げ価格を急激に引き上げ、同時に農産物への課税を廃止しました。これによって農夫の収入を増加させようとしたのです。
 政府は次に、農村世帯がより暮らしやすくするために農村の生活基盤の改善を図りました。具体的には、農村の道路やインフラへの大規模な投資を促進したのです。さらには、農外雇用を生み出すことを目的に、食品加工工場への投資も促しました。
 中国の農村の本格的な近代化が比較的最近である2000年代に胡錦濤政権によって行われていたのです。ちなみに胡錦濤自身は学生時代、水力工学を専攻していたこともあり、こうした農村へのインフラ導入には非常に適したリーダーだったと言えます。

農村における社会サービスの充実

 学校や医療、社会福祉などの社会サービスと言うと、それまでの中国では都市戸籍を持つ市民しか利用できないものでした。そこで政府は2006年から農村の社会サービスネットワークの再構築を始めます。それ以前の20年間の改革によって、農村の社会サービスの仕組みは分解されていたのです。
 まず、2006年には農村世帯の子供が受ける9年間の義務教育が無償化されました。さらに、2007年には農村における新たな共同医療制度が始まりました。つまり農村住民がお金を出し合って、病気になった人が低価格で医療を利用できる状態になったのです。こうして基本的な健康保険が提供されるようになりました。また同時期に、最低限所得保障(ベーシックインカム)の制度が都市部から農村地帯にまで拡大されました。
 これらの政策によってより多くの農村住民が安心して生活を営む事が出来る様になりました。2000年には農村人口の僅か13%しか健康保険を持たなかったのが、2013年には実質全ての農村居住者が何らかの健康保険を持つことが出来る様になったのです。
 2006年からの僅か十年足らずで農村世帯の暮らしが社会サービスによって急激に改善されていったのです。逆に、日本で当たり前と言われている社会サービスが中国の農村で適用されるようになったのがかなり最近である事も分かります。

年金制度の農村への導入

 2000年代半ばから起きた中国農村部での社会サービスの再構築の中でも、特に重要なのが年金制度の導入です。これは2009年に導入され、中国の歴史上初めて農村世帯に老齢年金の現金支給を保証する制度でした。高齢になり、農業に従事する事が難しくなった農夫たちにとって、この年金制度は老後の生活を支えるこの上ない安心材料となりました。
 2013年にはおよそ2億4000万人、つまり農村人口の40%近くにこの年金が適用されていました。それでも40%程度にとどまっている様子を見ると、農村ではまだまだ財源が乏しいという事でしょうか。都市部の潤沢な財源を農村に移管する事ができれば、この数字はもっと膨らむでしょうが、農村と都市の間の処遇の不平等と言うのは中国社会に今でも根強く残っているのが現状です。

数字で見る都市-農村格差の縮小

 こうした諸政策によって、都市と農村の社会的または経済的な格差はかなり是正されたと言えるでしょう。実際に、都市部平均所得と農村平均所得の比率は2007年に3.3倍でピークに達して以降、固定化する様になり、2010年以降は減少に転じています。2014年ではこの数値は3.0以下にまで下がっているのです。

まとめ

 2000年代に入って胡錦濤政権が農村の三問題、即ち農業、農村、農夫の抱える問題を如何に是正してきたかを見てきました。
 中国の2000年代は穀物の買い上げ価格の引き上げや農産物への課税の撤廃、道路や水道などのインフラ整備、そして健康保険や年金などの社会サービスなどの大幅な拡充など、農村の暮らしを社会的、経済的に豊かにする政策が目白押しでした。そしてこの結果として、都市と農村の格差が縮まりを見せている事も数字によって確認出来ました。






2020年9月14日月曜日

中国都市部の住宅ブームはバブルか?




はじめに

 中国では1998年に住宅民営化が行われます。つまり住宅株式が国から私企業や民間人へ移管さたのです。これによって住宅価格が市場価格によって決まる様になりました。そしてその後2003年までには不動産の財産権についてもその完璧なものが都市戸籍を持つ世帯に付与される事になります。つまり都市部の一般世帯が自由な不動産の売買を行う事が可能になり、それによって生じる利益も課税されること無く自分達のものにすることが出来る様になったのです。
 こうした政策によって、都市部家族は積極的に住宅を購入、売却するようになり、急激に豊かになります。一方で農村世帯には財産権について相変わらず厳しい制限があり、住宅市場に参加する事は出来ないでいます。
 今回は、こうした都市世帯の享受している住宅ブームを“バブル”と呼ぶことが出来るかどうかをテーマに、中国の住宅市場の行く末を見ていきます。

建設量と価格の上昇で見る中国の住宅ブームの凄まじさ

 住宅民営化が行われる直前の1996年から2012年の16年間に、新規住宅の年間建設量は3倍に増加しました。これは住宅の敷地面積にして6億平方メートルから18億平方メートルへの増加でした。
 これと並行して住宅価格自体も急激に上昇していく事になります。2003年から2013年の10年間に中国都市部の住宅の平均価格は167%増加しました。そしてこの間、人々にとって最も魅力的な都市である北京や上海においては平均住宅価格は3倍近くに膨らんだのです。もし北京や上海の住宅を初期価格で購入したとしたら、それが10年後には3倍に膨らんでいたという事ですから、売却すればどれだけ大きな利益を得ることが出来たかが分かります。
 こうして都市部家族は住宅市場参加でどんどん豊かになって行きました。

バブルとは何か?

 こうした中国都市部の住宅ブームはバブルであり、その内弾けてしまうのではないか、と言う見方ができるかもしれません。しかし建設量や住宅価格が上昇していると言う事実だけでは、これがバブルであると言う事の証明にはなりません。そもそもバブルとはどんな状況を言うのでしょうか?
 バブルという現象を特定する事は難しい事ですが、共通の定義としては、住宅や株式市場の株、またはチューリップの球根などの特定の物の価格がそれらの基本となる価格よりも遥かに高くにまで上昇する現象を言います。チューリップの球根の基本価格(誰もがその物の価格として妥当であると考えるもの)と言えば数百円くらいでしょうか。そうなら、これが数千円とか数万円にまで上昇すればそれはチューリップバブルと呼べるでしょう。しかし、実際にはこの基本価格に決まった値と言うのは無く、市場原理によって如何様にも左右されます。もしかすると、その内チューリップの球根一個が数千円なのが当たり前の時代が来るのかもしれないのです。だから、結局バブルと言うのは弾けてみて初めてそれがバブルであると分かるもの、とも言えるのです。
 例えば日本で1987年に始まり1991年に弾けたバブル経済は、1991年になって実際に弾けるまでバブルとは呼ばれていなかったでしょう。

バブルの見極め方

 そうは言っても、価格が上昇している間にそれがバブルであるかどうかを見極めたいものです。弾けてからではもう手遅れですから。そこでバブルの特定の仕方をご紹介します。
 まずその物の価格が過去においてどの様に振る舞ったかを注意深く見ます。そしてその価格変動の正常範囲を導き出し、これを現在の価格の上昇の仕方に適用します。もし一度でも価格がこの正常範囲を大きく超える事があれば、この現象をバブルと呼ぶことが出来ます。

中国都市部の住宅ブームはバブルなのか?

 生憎、先述の手法で中国の住宅ブームがバブルであるかどうかを特定する事は不可能です。何故なら中国では2000年代初期(都市部家庭に不動産財産権の付与が行われた時期)以前に民営の住宅市場が存在しなかった為、十分過去の住宅価格の変動データと言うのが明らかに不足しているからです。十分昔に遡ってみて見なければ、先述の正常範囲と言うのも決めることが出来ないのです。
 しかし、私たちは中国の住宅ブームがバブルではないと断言することが出来ます。
 その理由の一つとして、住宅民営化以前の数十年間、中国の住宅価格と言うのは国が決めた一定の価格から全く変わらなかった、つまり市場価格に比べて極めて低いままだった、という事です。この極低価格がスタート地点なのですから、一度市場原理が始まれば自然に住宅価格は上昇する事になります。
 もう一つの理由は住宅民営化が始まった当初は住宅の供給不足が深刻だったという事です。供給量が需要に対して極めて低かったのですから、価格は上昇せざるを得ませんでした。
 
まとめ

 中国の住宅ブームがバブルであるかどうかを考察してきました。結論としては、住宅価格が上昇するのが自然な程、初期価格が低く、同時に住宅供給不足が深刻だったのであり、これはバブルなどではない、と言うものでした。また、この住宅ブームの凄まじさを数字でも見てきました。北京や上海と言った大都市での住宅価格の上昇は凄まじく、民営化が本格化した2003年から僅か10年で3倍というとてつもないものでした。この凄まじさがバブルでは無く現実の物だと知った今、中国の将来がまだまだ明るい事が分かりました。






2020年9月13日日曜日

1990年代の都市経済の成長と農村経済の停滞




はじめに

 1990年代に入り、中国の経済改革はそれまでの農村中心のものから都市中心のものに移行していきます。それは天安門事件が証明したように、中央政府にとっての脅威が都市に住む人々の政府への不満である事を改革指導者たちが痛感したからでした。こうした事件が再び起きない様にする為にも、都市を豊かにしていく必要があったのです。1993年に鄧小平(とうしょうへい)に代わって江沢民(こうたくみん)が国家主席となり、中国都市部の改革が急速に進みます。
 今回は1990年代の都市部の改革の様子と、それによって都市世帯が如何に豊かになって行ったか、またその反面、地方にどの様な不平等が生じていたかを具体的に見ていきます。

企業と労働者に関する自由化

 まず、中国政府はそれまで都市部の企業の主流だった国有企業を再構築し、それらに対する金融の在り方を大きく改善しました。より効率的な企業体系に作り変えた訳ですね。そしてその代わりに私企業の進出を促進したのです。また、それらの企業で働き賃金を得ようと都市部に集まってくる地方からの労働者達の移動についても制限が緩和され、より自由に、そして容易に都市へ移動できるようになりました。
 しかし、彼ら労働者の家族は田舎に置き去りになっていました。都市部における急激な人口増加に伴う都市のスラム化を避けるために、労働者の家族についてはまだ移動が禁止されていたからです。さらに、移住労働者の受ける社会サービス(医療、福祉など)の負担を担うのは相変わらず地方だったのです。移住労働者が住むのは都市部でもその生活を経済的にバックアップしていたのは実質地方だったという事です。
 こうした所にまだ地方出身者に対する不平等があったのです。

都市部の商品に関する自由化

 この時期、主に都市部で作られる製造品の価格も自由化されました。つまりそれらの価格が需要と供給で決まる市場価格になったという事ですね。中国都市部という事もあり、需要は膨大ですから、当時、商品価格はどんどん上昇したでしょう。都市の企業はこれによって急激に成長することが出来たのです。
 しかし、その一方で穀物やその他いくつかの農産物については市場価格は設定されず、低めに抑えられた政府の買い上げ価格のみが相変わらず有効でした。つまり1990年代、農村部は豊かになろうとしても、生産した作物を安く政府に買い上げられてしまう為、都市に比べて収入の上昇が極めて起きにくかったのです。さらに、彼ら農村の農夫たちは、自由市場で高値で売ることが出来る換金作物の生産を犠牲にして穀物の生産量を最大化する様に政府から命令されていました。これもひとえに都市部家庭向けの食料を安く大量に調達する為でした。
 この様に、都市部世帯は収入、食料などの面でとても恵まれていましたが、その為の犠牲として農夫たちにはお金儲けの術がほとんど無かったのです。

都市部の住宅民営化

 そして都市経済を発展させた要因として最も大きなものが1998年の住宅民営化です。都市住宅の株式が民営化され、住宅価格の上昇が始まったのです。これによって、市場価格より随分と低い政府設定の内部価格で住宅を購入した都市部家族に膨大な利益がもたらされる事になります。
 彼ら都市戸籍を持つ家族は格安で購入したそれらアパート・住宅を後に高い市場価格で売却する事で簡単に利益を得ることが出来たのです。2003年までには都市世帯は不動産に関する完全なる財産権を政府から与えられます。つまり不動産の所有、購入、そして売却を制限なく好きなだけ行えるようになったのです。例えば新たに住宅を2軒同時に購入する事だって出来たのです。この場合、一方は住むために、もう一方は資産として後に売却して利益を得る為に所有する事ができました。
 一方の農村家族はこうした財産権を今日になってもまだ与えられていません。

都市世帯の所得上昇

 以上で述べた政策によって、1990年代の都市世帯の収入は急激に上昇します。その一方で農村世帯は経済的に置き去りの状況にありました。1990年に、都市部の収入は農村の収入の2.2倍ありました。それが2003年には3.2倍に膨らんだのです。
 こうして1980年代に改善するかと思われた都市と農村の収入格差は1990年代に入り再び大きく広がりを見せる事になったのです。こうした都市-農村間の不平等に対して2000年代に中国政府は幅広い対策を打ち出していく事になります。それについてはまた次の機会に解説しましょう。

まとめ

 1990年代、都市部で行われた、国有企業の効率化や私企業の推進、また労働者の移動制限の緩和、さらに製造商品の価格の自由化などによって都市部経済は急速に成長する事になります。
 その一方で農村の生産物、つまり農産物の価格については政府の買い上げ価格が設定され、その上昇は抑えられたままでした。政策によって農夫世帯は都市世帯の様に思う様に豊かになれなかったのです。こうした不平等によって都市と農村の収入格差が再び広がりを見せるようになります。
 さらにこうした格差に拍車をかけたのが1998年に行われた都市部の住宅民営化でした。これによって都市世帯は住宅を自由に購入、売却し、莫大な利益を得ることが出来る様になったのです。
 こうした不平等を是正するための政府の施策についてはまた次回お話ししますね。






2020年9月10日木曜日

都市と地方での財産権の違い




はじめに

 中国都市部では1990年代後半以降住宅ブームで豊かになる都市家庭が急増しました。彼らは格安で都市部の住宅を購入し、後に市場価格でそれらを売却する事で莫大な収益を得る事ができたのです。
 しかしその一方で、農村を含む地方の世帯は都市部の住宅に手を出す事ができませんでした。彼らは都市部世帯が利用できた格安の政府設定価格(内部価格)で住宅を購入する事は出来ず、従って僅かな貯金をはたいて高い市場価格でそれらを購入するしか選択肢が無かったからです。
 中国の住宅ブームは実際にはこの様に都市戸籍を持つ世帯による独占的なインサイダーゲームと化していたのです。  
 今回は都市世帯と地方世帯でその不動産に対する権利、即ち財産権がどの様に違うかに焦点を当て、都市と地方の間に生じる不平等の原因を詳細に見て行きます。

都市世帯の財産権

 中国の都市家庭には彼らの住宅に対する完全な形の財産権が与えられていました。つまり、彼らは自分達の住宅を自由に購入または売却する事が出来ました。また市場価格で住宅を売却した際に生じる大きな利益は課税される事も無く、そのまま彼らの懐に入ったのです。さらに、抵当金を得るために彼らの住宅を担保として使用する権利も彼らには与えられていたのです。だから、もし新しい住宅を購入しようとしてお金が無くても、今現在住んでいる住宅を担保にしてお金を借り、それを使って購入する事ができたのです。つまり彼らの持つ家を財産としてフル活用できたという事ですね。  
 以上のことから、今や中国の都市に住む家族は、もし彼らに不動産を獲得するだけの金銭的な余裕さえあれば、その不動産を先進国の家庭と同様に財産として自由に活用出来るという事が分かります。

地方世帯の財産権

 これに対して中国の農村世帯には財産に関してどの様な権利が与えられているのでしょうか?実は彼ら農夫達の財産権は都市世帯の自由なものとは大きく異なり、今も昔と同様に非常に厳しく制限されています。そしてこの事は今、頻繁に議論されているテーマです。  
 農村の財産権が具体的にどの様なものかと言うと、それは主に土地の使用権のみにとどまります。農村の農夫達は彼らの土地を公開市場で自由に購入したり、売却したりする権利を持たないのです。  
 その一方で、彼らはそうした土地をインフラ開発などをしたがっている政府に安い価格で差し押さえさせる事は出来るのです。しかしこれはある意味搾取と呼べる位不公平な話です。開発によってその農地の地価が上昇しても、差し押さえされた時点でその土地はもう国のものなのですから、元の持ち主だった農夫にはそれによる利益は全く無いからです。  
 そして先ほど、農夫にも土地の使用権だけは認められている、と言いましたが、この使用権の程度と言うのは実際には地域によって幅広く異なるのです。農作物しか作れない土地もあれば、家を建てる事が許可されている土地もあるかもしれません。しかし多くの場合、その土地が誰のものであるか、つまり所有権は不明瞭なのです。だから結局、土地に関する利益が発生してもそれが農夫達のものであると明確に証明する事が出来ないのです。

農夫達に完全な財産権を与えようとしない政府

 中国政府は相変わらず地方の農夫達に都市世帯と同レベルの財産権を与えようとはしていません。政府は農村世帯の不動産市場への参入には非常に消極的なのです。住宅や土地と言うのは農産物に比べ遥かに金額が大きい為、それを売買する事により生じる利益はその世帯を劇的に豊かにします。だからこそ、そうした不動産売買とそれによる収益化の自由を可能にする為の完全な形の財産権が地方の農夫達に与えられない今の状況というのは、都市と地方の収入および富の格差を助長する事になります。

中国都市部が経験しているのは住宅バブルに過ぎないのか?

 ここまで、地方世帯に比べて都市世帯が一方的に豊かになっていく原因としての財産権の地方と都市での違いについて見てきました。都市部の住宅ブームは完全な財産権を持つ都市戸籍所有者達のインサイダーゲームになっています。こんな事がいつまでも続くと思うのは少し楽観的なようにも見えます。そこで中国都市部の住宅ブームの将来について少し考えてみたいと思います。
 中国では1998年から2013年の間の15年間、住宅建設量と住宅価格の両方が途方も無い勢いで増加してきました。アメリカ合衆国が2007年に経験したように、中国の住宅ブームもバブルに過ぎず、その内崩壊する時が来るのでしょうか?
 その答えは今後しばらく住宅市場を見ていく事で明らかになるでしょうが、現時点ではこれがバブルであると言える根拠は無く、中国都市部の住宅価格の上昇の仕方はあくまで堅実さを保っています。

まとめ

 中国の地方と都市で家庭に与えられた財産権がどれだけ異なるかを見てきました。都市戸籍を持つ都市世帯は自分達の住宅を自由に売買し、時にそれを担保にして資金を借りる事が出来、また売買による利益を全て自分達のものにする権利を持っています。
 一方の農村世帯は土地の使用権が与えられているだけで、その売買権までは認められていませんでした。その為、彼ら農夫達は都市家庭が不動産市場に参入する事で手にしているような大きな利益を得る事が相変わらず出来ないでいます。これによって地方と都市の間の収入および富の格差が助長されています。  
 そしてこうした不平等が終わる事はあるのか、つまり中国都市部の住宅ブームは結局はバブルであり、その内崩壊するのではないか、という疑念についても少し触れました。しかし現時点ではこれがバブルであると言う事を示す根拠はありませんでした。






2020年9月8日火曜日

1990年代の中国の改革指導者達




はじめに

 中国の1980年代は農村経済を改革する時代でした。そしてその意図通りに、農村は豊かになっていきました。ところがこの時期、都市部では物価の上昇、学生の就職難、そして政府役人達の汚職などが蔓延し、これらに対する市民の不満が鬱積していました。そうした不満や怒りが爆発した結果、1989年初夏に政府軍と抗議デモ集団が天安門広場周辺で衝突した有名な天安門事件が起きます。  
 そこでこの事件以降の1990年代、中国共産党指導者達は都市部の不満を無くす方向に改革を推し進めていく事を決めるようになります。そしてこの間、農村経済は停滞する事になるのです。 
 今回は都市重点型の改革が行われた1990年代の中国の指導者達とその経歴にスポットを当てて都市改革初期の様子を見て行きます。

1990年代の都市重点改革と1980年代の農村改革の違い

 1990年代に入り、都市重点型に中国経済が改革されたとは言っても、それはあからさまで意図的な都市のひいきが行われたと言う訳ではありませんでした。
 一方の1978年から1980年までの農村改革では、中国共産党が農産物価格を引き上げたり、人民公社を解体して個人農業を始めることを奨励したりと、かなり手厚い処遇が行われていました。
 その為、単純にこれら二つの改革時代を同質のものとみなす事はできないのです。実際に、1990年代に入って、農村収入に比べて都市収入を上昇させる為の動きが宣伝される様な形で明白に見られることはありませんでした。

党指導者達が1989年から学んだ教訓

 しかし、多数の犠牲者が出た1989年初夏の天安門事件を経験した中国共産党指導者達が、自分達の権力掌握にとっての最も大きな脅威が地方ではなく都市からやってくると言う事を痛感した事は事実です。
 つまり、都市部の不満を暴発させない為にも、都市を豊かにし、都市世帯の人々の生活水準を上げなければならないと言う事を教訓として彼らは学んだのです。そしてこうした考えは、主に都市での活躍を経歴として持つ政治指導者達によって具体化されて行きました。

経歴で見る1980年代の改革者と1990年代の改革者の違い

 1980年代の農村改革を指導した重要人物は万里(ばんり)と趙紫陽(ちょうしよう)の二人です。この内、趙紫陽は1980年から1987年まで首相を務め、1987年から1989年まで中国共産党中央委員会総書記でした。彼らは初期の政治経験を主に地方で積み、農村の貧困問題などに取組んでいました。具体的には農村が非効率的農業から脱却する為に人民公社を解体し、農地を農夫へ返還する事を強引に推し進め、また農産物価格の引き上げなどを行いました。しかし趙紫陽は1989年の天安門事件で失脚してしまいます。おそらくこの事件の原因の一つが1980年代に彼らが行った農村重点的な政策だったからでしょう。  
 一方で1990年代の都市重点改革の主要な指導者は国家主席となった江沢民(こうたくみん)とそれを補佐した朱鎔基(しゅようき)でした。この内、朱鎔基は1993年から1997年に副首相兼財務長官、そしてその後は2003年まで首相を務めました。彼ら二人はそれ以前は共に大都市である上海の指導者であり、主に都市部の問題に取組んでいました。特に江沢民は1985年から上海市長を勤めた都市部での実力者でした。  
 これらの事からも、1980年代の指導者と1990年代の指導者の経歴の違いが分かります。一方は地方で、もう一方は都市での政治経験が主だったのです。

地方の景気停滞と都市部の改革の加速

 こうした指導者の経歴の違いが1990年以降、地方と都市との経済的格差を広げていく事になります。実際に1990年代を通じて地方は相対的に景気が停滞する事になります。
 一方の都市は急速に改革が進み、中国の経済成長がこれによって本格的に加速する事になります。これに伴って地方から都市への人口流入も1980年代に比べて大きく増加する事になるのです。それは1990年代に入って都市が本格的に豊かになり、都市での雇用が増加したからです。

まとめ

 天安門事件の前の1980年代とその後の1990年代で、中国共産党の指導者とその経歴が農村重点型から都市重点型へがらりとかわり、これによって農村改革から都市重点改革へ政府の方針が引き戻されていく事になります。1980年代には効率的農業による農業生産高の向上や郷鎮企業の出現などによって経済的に豊かになった地方、農村でしたが、それが1990年代に入って再び停滞する事になるのです。その代わりに、中国は欧米や日本のような先進国に経済的に追いつくべく本気になって都市部を改革する事になったのです。






2020年9月7日月曜日

住宅民営化が中国社会に生んだ巨大な亀裂




はじめに

 1990年代後半に行われた中国の住宅民営化は、都市部の国有住宅居住者にとてつもない利益をもたらしました。彼らは政府からの支援を得た上、格安の内部価格で住宅を購入し、後にそれを市場価格で売却する事で膨大な利益を得ていたのです。その一方で、そうした条件にそぐわない不幸な家族は、僅かな貯金をはたいて高い市場価格の住宅を購入しなければなりませんでした。ここに住宅民営化の影の部分、すなわち不平等や不公平があったのです。  
 今回はこうした不平等が具体的にどの様なものだったのかを田舎から都市への移住者の住宅環境などに焦点を置いて見て行きます。

都市戸籍所有者の格上げ需要

 住宅民営化は結局、田舎に戸籍を持つ貧しい人々が都市部の住宅を購入し、そこへ移住する、と言うような、サクセスストーリーを実現する事はありませんでした。得をしていたのはあくまでも都市戸籍を持ち、国有住宅に住んでいた恵まれた家庭だけだったのです。  
 住宅民営化によって起きた2000年から2010年にかけての凄まじい勢いの住宅ブームというのも、実質はこうした恵まれた家族が古い家から新しくより良い家に移り住もうとする事によって生じる、いわゆる”格上げ需要”によって営まれていたのです。  
 一方で農村から都市への移住者からの住宅への需要と言うのはほとんどありませんでした。何故なら、彼らは都市戸籍を持つ家族とは違い、高い市場価格で住宅を購入しなければならず、彼らの乏しい貯金ではそんな事はとても出来なかったからです。

インサイダーゲームと化していた住宅市場

 中国における改革開放以降の田舎から都市への大量移住というのはあまりにも有名ですが、この”移住”と言うのは決して彼ら農村出身者達が都市部のよりよい住宅にそのまま住めるようになったと言う意味ではなかったのです。彼らの住宅への要求と言うのは適当にあしらわれ、その一方で恵まれた都市戸籍所有者達は住宅市場で莫大な利益を得たのでした。こうした住宅市場の様子は正しく都市戸籍所有者の”インサイダーゲーム”と呼ぶにふさわしいものでした。

住宅所有率で見る格差

 2012年までに研究者達が中国の家庭が農村-都市の戸籍別にどれだけの割合で住宅を所有しているかを様々に調査し、その結果を提示しました。その結果は驚くべきものです。都市戸籍所有者の場合、住宅所有率は70~80%、移住者(農村戸籍所有者)の場合、それは10%以下だったのです。前者の数字は近年のアメリカ合衆国の住宅所有率よりも高いものです(アメリカ合衆国の住宅所有率は2004年に69%となりピークに達しました)。  
 そして後者の数値は、移住者達がほとんど家を持てていないという状況を示すものです。 彼ら移住労働者達は、家を持たない代わりに、会社寮か、建物の地階または防空壕に作られた地下アパートか、あるいは都市郊外にある農場家屋を多少改築したものなどに住んでいるのです。 つまり都市戸籍所有者だけで中国を見るならば、その住宅所有率はアメリカ合衆国などの先進国並み、或いはそれ以上なのです。こうした数値からも中国の”部分的な都市化”という実態を読み取る事ができます。

住宅民営化と中国社会に出来た亀裂

 以上に見てきたように、中国の住宅民営化は恵まれた都市戸籍世帯とそうでない農村世帯の間に大きな不平等の亀裂を生じさせました。そして住宅民営化は中国政府があからさまに都市をひいきしている事の表れでもあります。  
 何故公然とこうした都市ひいきが行われるかと言うと、それは都市部の不満を無くす事が1989年に起きた天安門事件のような悲劇を繰り返さない事だという事を政策立案者達が信じているからかもしれません。  
 この亀裂がなくなるためには、政府が移住者達に都市戸籍を与え、インサイド(都市)とアウトサイド(農村)の境界を無くして平等に市場に参加できる環境を作らなければならないでしょう。しかし農村部の膨大な人口を考慮するとそれは都市の生活水準を保つ上で極めて危険な決断である事も事実です。

まとめ

 2000年から2010年にかけて、住宅民営化が実際には都市戸籍所有者達が独占的にそして簡単に利益を得る事が出来るだけのインサイダーゲームと化していた様子を見てきました。一方の移住労働者達はおよそ住居とは呼び難い劣悪な環境に暮らしていました。そしてそうした実態を裏付けるように、都市戸籍所有家族と移住家族との間で住宅所有率に雲泥の差がありました。
 結局、住宅民営化は一部の恵まれた都市世帯を豊かにしただけで、農村と都市との格差はますます開いていく事になったのです。この不平等の亀裂を無くすべく、政策立案者達も戸籍に関する新たな制度の導入などを考えていますが、膨大な人口を抱える中国社会において、これは難しい問題です。






2020年9月5日土曜日

天安門事件と都市中心の改革への立ち戻り




はじめに

 1989年6月に天安門事件が起こる直前の1980年代、中国都市部では政治改革への熱気が高まっていました。改革開放から一夜明け、中国の若者達は自分達の貧しさに気付き「中国も欧米や日本の様に豊かにならなければ」、と本格的に思うようになったのです。
 しかし中国に渦巻いていたのはこうしたプラスのエネルギーだけではありませんでした。食料価格に関する中国政府の政策や役人達の汚職に対する市民の不満が徐々に高まりを見せていたのです。  
 今回はこうした市民の不満が爆発した結果、天安門事件が起き、以後改革の重点が農村から都市部へ引き戻されていく様子を、当時の都市部世帯が直面していた経済的苦境を中心に見て行きます。

都市部収入と物価の上昇

 1980年代は農村世帯が豊かになって行った時代でした。その理由の一つが農産物を中心とした食料価格が急激に上昇した事でした。1978年の改革開放以降、中国共産党が農産物の価格を引き上げてきたのです。こうした政策はそれまで貧困が蔓延していた農村部を救済する為の措置でもありました。  
 食料価格の急騰は慢性的なインフレ(物価の上昇)を引き起こします。1988年後半と1989年前半にはこのインフレ率は20~30%という恐るべき数値を記録しています。  
 一方で都市部の収入もまた急激に上昇していました。実際に都市部世帯の生活水準は1980年以来目覚ましく改善してきましたが、同時に物価の上昇を目の当たりにしていた都市市民達は、自分達の収入に見合うだけの余裕のある生活が今後出来ないかもしれない事に不安と不満を感じていたのです。

学生達の就職難と私企業の雇用制限

 またこの時代、都市部の高校や大学を卒業予定の学生達は就職難に直面していました。彼らの就職先は主に国有企業や私企業になりますが、そのどちらも、雇用を改善するべく尽力していたにも関わらず、十分な職を用意できていなかったのです。特に私企業は政府からの規制が非常に強く、若者を自由に採用できない状況にありました。中国都市部の私企業は一般的に”世帯企業”と呼ばれ、この世帯企業は法律によって7人以上は雇用できない事になっていたのです。  
 1980年代、中国の若者の間ではこうした制限的な雇用条件に対する不満があったのです。

政府役人による汚職

 不満の温床は就職に関してだけではありません。政府に所属する役人達が行っていた汚職も大きな原因でした。中でも彼らが国家による低い計画価格で商品を買い上げ、大きな利益を得る事を目的にそれらを自由市場で転売する習慣には大衆からの怒りが向けられていました。高価格な自由市場でしか商品を購入できない一般世帯はたまった物ではありません。自由市場を舞台としたこうした不平等、不公平が、1990年代後半の住宅民営化が起きる10年前に既に起きていたのです。

天安門事件とその後の都市中心の改革への立ち戻り

 上記で述べた、物価の高騰、厳しい雇用環境、役人達の汚職などに対する若者達の不満は1989年春からデモとなって爆発し、北京を初めとした中国の諸都市の街を騒然とさせます。そして1989年6月4日には北京の天安門広場周辺で政府陸軍が抗議者集団と衝突し、彼らを追い払うと同時に何千人もの犠牲者を出します。有名な天安門事件です。
 この事件以降の数年間、政府の改革支持者達は改革の重点を農村から再び都市部に引き戻す事で合意する様になります。これは天安門事件によって、政府にとっての脅威が農村ではなく都市部に存在する事を改めて確認した政府高官達の結論でした。そして都市の不満を払拭する事とはつまり都市をより豊かに成長させる事でした。

まとめ

 政府に対する都市市民達の不満の原因が物価の急騰や就職難、そして政府の汚職にあった事を解説しました。そしてそうした不満・怒りが爆発した結果引き起こされた天安門事件によって、改革の方針が農村重点型から再び都市重点型に移行する様子を見てきました。ここから農村と都市との格差が再び広がっていく事になります。1990年代に入ってからのことです。






2020年9月2日水曜日

1989年からの農村ー都市間格差の再拡大




はじめに

 1980年代、農村部では農産物の生産性の向上や、郷鎮企業の成功に伴って豊かになる人々が増加しました。しかし、こうした傾向は長くは続きませんでした。1989年以降、再び都市と農村の間の格差が拡大し始める事になるのです。
 今回は都市と農村間の不平等が1990年代に再び広がる原因となった1989年の天安門事件の背景について見て行きます。

1980年代における農村収入の急激な上昇

 まず、改革開放直後の1980年代、農村部で起きた農業の近代化や郷鎮企業の出現などの様々な改革によって農村収入がどのように上昇したかを解説しましょう。重要なのは、こうした改革は農村に住む人々に偏って利益をもたらしたという事です。それまで(1978年末の改革開放開始まで)の都市との格差を狭める為に政府も政策として農村を豊かにしようとしていた事が窺えます。  
 郷鎮企業は製造業なので、農村労働者がそこで働けば農外所得(農業以外で得られる所得)を得られます。1980年代はこの郷鎮企業での雇用機会が急激に上昇しました。一方で、農夫達が作る農産物の価格も同様に目覚ましく上昇します。
 つまり当時の農村では製造業と農業の両方で収入の上昇が見られたという事です。これらの結果として農村の収入は都市の収入よりも速く上昇したのです。

長くは続かなかった農村部の成功

 しかし1980年代に起きたこうした農村部における収入の上昇も長くは続きませんでした。もちろんこうした農村部の成功は、それ以前の数十年間、都市部が受けて来たひいきを矯正する為に必要だったでしょう。1970年代終盤、農村部に蔓延していた貧困を思えばそれは当然です。
 ところが、こうした農村へ恩恵を与え続ける状況を打ち破るように1989年に政治混乱が起きます。あの有名な天安門事件もその一部です。主にこの混乱を境に、中国の経済改革は1980年代の農村重点型から1990年代の都市重点型のものに変わってしまいます。

天安門事件が起きた時代背景

 天安門事件の直前、1989年春に北京の天安門広場やその他の中国の都市では生活に困窮した若者などを中心としてデモ行進が行われていました。何故この様な事が起きていたのか、その時代背景を見てみましょう。  
 そもそも1980年代というのは、政治システムに大きな変革をもたらそうとする人々の熱意と活気に満ちた時代でした。若者を中心に中国各地で政治についての議論がなされており、政府もそれを容認していました。中央政府は政治改革を研究する為の職場まで用意して、そうした議論・研究がなされる事を歓迎していたのです。それはひとえにより豊かになる為でしょう。都市部といっても当時の中国は近代的な豊かさには遠く及んでいなかったのです。
 改革開放から十年余りが経って、今の政治システムではいけないと言う事に中国の人々、特に学生や学者達が真剣に気付き始めたのです。

欧米や日本との間の格差に気付いた学生や学者達

 1980年代、中国の学生や学者達のそうした政治改革への熱意に火をつけたのが、彼らが海外旅行を通してアメリカ合衆国やヨーロッパ、そして近場では日本や香港と言う豊かな国々の高い生活水準や、その外国に開けた自由主義の開放的な空気を目の当たりにした事でした。彼らはきっと「自分達もこうなりたい」と思った事でしょう。1980年代に、1949年の革命以来初めて、彼らは大勢で海外を旅行し始めこうした実態に気付いたのです。”豊かさ”についてのおよそ30年間の空白があったということでしょう。
 それまで閉鎖的な中国で生きてきた将来有望な若い学生や学者達は、こうして外国と中国との経済的・思想的な格差に気付き、本格的に政治を変えなければならないと思う様になったのです。

まとめ

 今回は1980年代の農村経済の目覚ましい成功と、それを終わらせる事になった1989年の政治混乱の背景について見ていきました。
 1980年代は都市部の若者、特に学生や学者達にとっては中国が海外に比べて如何に経済的・思想的に貧しいかに彼らが気付き、政治を変革する事に強い関心を持った時期だったのです。
 そして中国はここから再び都市重点型の改革に移行していくことになります。都市部の近代化が本格的に進むのです。






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