2020年7月30日木曜日

居住許可制度の今後および1990年代後半までの都市居住者達の生活




はじめに

 中国政府は2010年から国内のいくつかの都市で居住許可制度を試験的に実行しました。 この制度は農村からの移住者の勤務実績や納税額、学力などの社会的能力がある一定の要件を満たせば彼らに都市での居住許可とその地域で社会サービスを利用する権利を与えるものです。  
 これは農村から都市への移住を極めて困難にしていた従来の戸籍制度を部分的に改革しようとするものです。今回はこの居住許可制度が今後どの様に展開していくのか、その可能性について見て行きます。
 またこれまでは農村から都市への移住者に焦点を置いて話してきましたが、今回初めて元々の都市居住者達が都市でどの様な生活を送っているのかについても見て行きます。

居住許可制度の可能性

 中国がその国全体として蓄えている財源を持ってすればこの居住許可制度を全国的な規模で展開し、実行する事も可能でしょう。そうなれば、あらゆる農村出身者は都市へ出て行きそこに住む機会を得ることが出来るようになるので、もはや農村戸籍は農村出身者を農村に縛り付ける力を持たなくなると言えます。それによって農村戸籍は単にその土地が誰の所有物かを証明するだけのものになり下がるのです。戸籍からようやく人が解放されるという事ですね。

居住許可制度の本格的発効の為の課題

 しかしこれはあくまで理想論であり、現時点では居住許可制度による戸籍制度改革は試験段階にとどまっています。これが試験段階を抜け出し、本格的に発効されるようになる為には、中央政府はまず中国国内のあらゆる地域でこの制度が通用するような制度としてのきちんとした規格を作り、それを発行する必要があります。
 さらに財源豊かな大都市が社会サービスを提供する為の財源に乏しい地方都市にそれを実行する為の財政支援を行えるように財政移管制度を改善していく必要もあります。

都市居住者を管理していた単位と言う組織

 これまでは農村からの移住者の生活に焦点を置いてきました。ここからは都市部の人々の暮らしを見ていきましょう。彼らは果たして農村部の人々に比べて自由で豊かな暮らしをしていたのでしょうか?
 実は 1990年代後半までは殆どの都市居住者は僅かな賃貸料を払い単位(たんい)と呼ばれる労働組織によって与えられる狭いアパートに住んでいたのです。
 ちなみにこの単位は共産主義圏である中国特有の組織で、都市居住者はこの単位の下で組織化され、その下で働き、彼らの生活や思想はこれによって管理・支配されていました。農村の人々だけが戸籍制度によって劣悪な条件で生活していたかと言うと、実は割りと最近まで都市部の人々も厳しくその生活を管理、制限されていたんですね。

都市住宅市場の民営化による経済の躍進

 都市部でのこうした生活様式は勿論、中央政府によって管理される毛沢東主義的な計画経済の名残ですが、この様な堅苦しい空気に満ちた管理的な生活の下では誰も新たな住宅を建てようとか、購入しようとかいう気持ちにはなれませんでした。その結果、住宅の供給も少なく、大抵の家族は一人当たり13.5平方メートルほどの生活面積しかない狭苦しい住居に住んでいたのです。 
 しかし1990年代後半以降、こうした生活が都市住宅市場の民営化によって大きく変わっていく事になります。そしてこれは中国経済の歴史における一大転換点となるのです。 

まとめ

 前半では農村出身者達の都市での生活機会を提供する居住許可制度が現在どの様な段階にあるのかを見てきました。やはり広大な中国全域で一度にこれを発効する事は政策立案的にも財政的にも難しいようです。  
 そして後半では都市居住者達が1990年代後半まで如何に制限的な住宅環境で生活していたかを見ていきました。そしてそうした生活を大きく変える転換点としての都市住宅市場の民営化についても触れました。





2020年7月28日火曜日

戸籍制度を完全に止められない事情と改革の意思


はじめに

 中国の政策立案者達は大量の移住労働者達が都市に押し寄せる事で都市のスラム化やスプロール化が起きる事を懸念しています。その事が中国の厳しい戸籍制度(都市への移住制限制度)の抜本的な改革がなかなか行われない事の原因です。しかし中国の役人達も移住労働者達に平等に居住の機会を与えようと努力しているのです。そうした努力は近年”居住許可制度”の試験的実施として公になってきています。今回は近年の中国が慎重に戸籍制度を改革しようとしている様子を見て行きます。

中国の大都市はスラム化しかかっている?

 発展途上国を見れば、その国の大都市がありとあらゆる職業、出身の人々を無差別に吸引した結果、危うくスラム化しかかっている様子が分かります。フィリピンのマニラ、インドのムンバイ、ブラジルのサンパウロなどがその例です。  
 一方で、東アジアには東京やソウルの様にそうした問題をはらまずに創造性や技術革新の中枢として非常に秩序的に発展を遂げた大都市もあります。 
 中国の大都市を一目見た時に、その印象が前者と後者、どちらに近いかと言うと、実は前者なのです。つまりソウルというよりはマニラに近いのです。だから中国の役人達が大都市への人口流入を戸籍制度によって厳しく制限し続ける事はある意味正しい判断と言えます。
 しかし、こうした移住制限は都市のスラム化を避ける事が出来る一方で、中国が日本や韓国の様な革新的な社会に成長する事の弊害になるでしょうし、また社会的な不平等を解決する事を困難にしていくでしょう。

居住許可制度:戸籍制度改革が現在尽力している事

 こうした問題を是正する為に、中国の役人達は現在、従来の戸籍登録制度と並行する形で実施予定の”居住許可制度”を練り上げています。この居住許可制度では住居、学校、病院などの社会サービスの利用が従来の階級的な戸籍から切り放され、各個人が働き、住んでいる都市や町が発行する居住許可証によって賄われる事が想定されています。そしてこの居住許可証というのは、個人がその職業的、教育的適性を十分高め、きちんと国に納税して行きさえすれば、誰でも手に入れることが出来るものなのです。  
 2010年に広州、深圳、重慶、上海、天津を筆頭とするいくつかの大都市がこの居住許可制度を試験的に実施しました。そしてこれらの都市がこの際に使ったのはポイント制度でした。このポイント制度の下で、移住者達は長年の勤務状況や教育的適性、収めた税金の額などを基に都市から評価を得ることが出来ます。そしてこのポイントをある一定値以上に積み上げる事ができれば、彼らはその都市の居住許可を得ることが出来るのです。

まとめ

 中国都市部である種の階級社会を作っていた戸籍制度は社会サービスの不平等の原因として、また中国社会の革新的な発展の妨げとして中国政府からも問題視されてきました。そこで近年では徐々に改革が行われ、居住許可制度という新たな制度を導入する計画を中国は進めています。
 この居住許可制度はあくまで試験段階ですが、個人の能力や実績を正当に居住許可に反映させると言う点でおそらく中国をより効率的に成長させていくものと考えられます。そしてそれがいつか革新的と呼ばれる様な都市国家の創造に繋がる事でしょう。








2020年7月26日日曜日

都市部エリート達の思惑と戸籍制度の関係




はじめに

 農村からの移住労働者達が大都市に流れ込む事を避けるために中国政府は戸籍制度による移住の制限をなかなか緩和しようとしていません。都市にやってきても都市戸籍が無ければ、彼らはまともな住居にも住めず、病院にも行けず、子供を学校へやる事も出来ないのです。果たして彼らが平等にこうした都市的な社会サービスを享受できる様にするための解決策はあるのでしょうか?
 今回は中国都市部のエリートや政策立案者達の移住労働者に対する思惑について見て行きます。

理想的な解決策

 移住労働者達が被っている不平等を是正する為の最も単刀直入な解決策は、戸籍制度による移住制限を完全に取り払い、最も大きく豊かな都市、すなわち北京や上海のような大都市に自由に住まわせる事でしょう。そうした大都市には移住者達全員に社会サービスを提供するだけの財源が既に十分にあるのだから、これは決して不可能ではないのです。
 さらに、そうした大都市には多様な職種の質の高い雇用が豊富にあるので、移住労働者達が一度それらの職に就くことが出来れば、彼らの生産性は一気に上昇する事になるでしょう。そうなればこれは中国の将来的な経済成長にも貢献するでしょうし、この経済成長によって都市の財源は膨らみ、社会サービスもさらに拡充する事ができるのです。

戸籍制度はどの程度緩和されているか

 前項で述べた様な理想的な解決策を中央政府がどれだけ検討しているかと言うと、殆ど審議されていません。中国は人口規模が大きい事もあり、アメリカや日本の様に都市を自由に発展させると言う事にはリスクがあるからでしょう。  
 それでは現実には戸籍制度はどれ位緩和されているのでしょうか?数字で見てみましょう。  
 2014年に行われた戸籍制限の緩和政策は、人口100万人以下の小都市への移住は積極的に奨励しました。一方で人口500万人以上の都市への移住は厳重に規制したのです。100万人以下、という事は、日本で言えばちょっとした地方都市の規模はあるわけです。  
 これらの数字を見れば分かるように、農村からの移住労働者達が極端に都市に避けられていると言う事は現在ではもうないんですね。彼らがそうした小都市で就業し、家族を養い、子供を学校に入れてあげる事が出来れば、それは農村での生活に比べて随分と豊かな暮らしと言えます。だから後はそうした小都市での社会サービスが充実しさえすれば、彼らに足りない物は無くなるのです。  
 ただ、小さな都市にその為の財源があるかと言うと、大都市に比べてそれほど充実はしてないというのが現状でしょう。だから大都市の巨大な財源を地方にも平等にいきわたらせる必要があります。つまり都市の平等化が市民の平等化に繋がるという事です。

都市部のエリート達の思惑

 前項で述べた2014年の戸籍制限緩和には、確かに都市部のエリート層(富裕層)の思惑とその政治力が反映されていると言えます。結局、移住労働者達は戸籍制限によって魅力的な大都市には住めない訳です。何故大都市のエリート層が彼ら移住労働者の流入を避けたがるかと言うと、そうした低所得層の流入によってエリート達の都市生活の質が低下する事を彼らが恐れているからです。また、中央の政策立案者達もそうした流入現象による大都市のスプロール化を懸念しており、これも今回の慎重な制限緩和がなされた大きな要因です。

まとめ

 移住労働者達が何故経済の中核的な大都市になかなか住めないのかを、大都市に住む富裕層の思惑を通して見てきました。つまり彼らも低所得者の流入で自分達の生活の質が脅かされる事を心配してなかなか戸籍制度による移住制限を解消しようとしないのです。また都市の秩序を維持する事が仕事の一つである政策立案者達もそうした移住労働者の流入による都市の無秩序化(スプロール化)を懸念しているのです。







2020年7月25日土曜日

戸籍制度というバリアはいつまで存続するのか?




はじめに

 中国では農村からの移住労働者は戸籍制度による経済的・社会的な障壁(バリア)のせいでどうしても大都市の環境のよい住居には住む事ができません。
 今回はこの国の戸籍制度が都市部にもたらした社会階級の固定化や根強く残る移住労働者の大都市への厳しい流入制限、またそうした状況が現在どのように改善されようとしているのかを見て行きます。

大都市に跳ね除けられた移住労働者達の小都市への流れ

 単に移動に関して言えば、改革開放以降、中国の戸籍制度は農村からの移住労働者への規制を随分と緩和してきました。今では移住労働者達は、彼らに適した仕事がある所へなら何処へでも自由に行ける様になったのです。しかし実際に都市に住むと言う事になると、まだ戸籍制度が大きな障壁となります。どういう事か説明しましょう。  
 まず彼ら移住労働者が経済的な活気に満ち、高賃金で良質な仕事に溢れる憧れの都市に住もうとすれば、都市戸籍を持たない彼らには高額な経済的出費が課されるので、彼らはそうした経済の中核的な地域にはとても住む事はできず、結果その周りの小さな都市に住む事にならざるを得ないのです。さらに、都市部では正規の住居、公立の学校、病院などの社会サービスはあくまでも都市戸籍を持つ人達専用であり、移住労働者達の家族は基本的にそれらを利用する権利を持ちません。つまり彼らが都市部に住む事は二重に困難になるのです。  
 この様に中国の大都市は移住労働者を戸籍制度という巨大な経済的・社会的バリアで周辺の小都市に跳ね除けて来た訳です。北京や上海もこうした大都市の一種ですが、これらの代表的都市は戸籍制度以外の面でも彼ら移住労働者に対する政策が特に厳しいと言われています。
 一方で小規模都市では移住者に対する制限措置も比較的緩いのです。何故なら小規模都市では住宅やインフラなどの建設業が盛んなので、その為に必要な労働者の需要があるからです。だから結果的にはこうした小さな都市へ移住労働者が流れ込む様になるのです。しかし建設の熱が一度冷めれば、彼らの生産性はもはやそれ以上高まる事がないので、長期的に見て移住労働者達の生活水準が大きく改善する事は見込めないのが実態なのです。

戸籍制度による社会的地位の固定

 中国の戸籍制度はまた社会的流動性、つまり移住労働者達が社会的地位を向上させる事に対しても重大な障壁となっています。例えば彼らはいくら働いても都市戸籍を持つ正規の都市居住者の賃金の60%しか稼ぐ事が出来ません。制度でそう決まっているのです。その結果として、移住労働者の子供の世代も親の世代と同様に比較的に貧しくなり、相変わらずよりよい住居や生活環境に手を伸ばす事ができないのです。そこには当然そうした移住労働者の家系に対する都市社会からの差別もあります。
 この様に中国の戸籍制度は乏しい家系がずっと乏しくなってしまう仕組みそのものなのです。こうした中国都市部の状況は、田舎からの移住者があっという間に長年の都市居住者と区別出来なくなってしまう韓国の様な国とは対称的と言えます。

戸籍制度の改革の現状

 こうした厳しい現状がある一方で、中国の中央政府は移住者へのこうした制限的な戸籍制度を過去15年間で極めて慎重に改善しようとしてきました。目立った動きもあったのです。
 例えば2001年には小さな都市や町が移住者に対して都市戸籍を与える事を国が奨励しました。また2006年には中国国務院が都市への移住者に独断的に課金する事を廃止する事を決めました。さらに2011年には戸籍制度の緩和を目標とした国の指針を発表しました。2014年にはその指針を実行に移す為の準備も行われたのです。
 こうした戸籍制度の改革に関する政策の発表はゆっくりと徐行で行われてきました。目に見える進歩と言うのが非常に緩慢だったのです。中国の農村は人口規模がとてつもなく大きいですから、国が移住制限の緩和に慎重になるのは自然な事なのかもしれませんね。  
 しかしそれでも中央政府は都市に住む移住労働者達も都市居住者と同等に社会サービスを利用できるようにする方法を着実に検討しています。そしてその際にそれらの都市の財政をひっ迫させない事、また移住労働者達が沿岸部の少数の経済力豊かな大都市に集中的に群がるのではなく、むしろ小規模都市も含めた国中のあらゆる規模の都市に均等に流れ込む事を確実にする事を課題として定めています。  
 もしこの計画が実現すればそれは素晴らしい事ですが、明確な解決策を出すのはなかなか困難なようです。何故なら小さな都市というのはそもそも財政的に恵まれていないので、そこへ流れ込んだ労働者達全てに平等に住居などの社会サービスを提供すると言うのは現実的に難しいからです。中国の政策立案者はきっと市場原理に任せて大都市へ移住労働者を集中させる事と共産主義国家の最高レベルで彼らの流れを統制しようとする事のどちらにも重点を置く事ができず、その間で激しく葛藤している事でしょう。

まとめ

 戸籍制度による移動管理が比較的緩和された現在でも、農村からの移住労働者達が大都市に拒まれ、実際には経済成長の見込みの低い小都市に流れ込む様子を見てきました。そして戸籍制度による世代を通じての社会的地位の固定化が問題となっている事にも触れました。  
 こうした問題を是正すべく、中央政府も社会サービスの平等化を進める方針を打ち出しています。しかしこれを実施するには、小規模都市の財政面など、まだ様々な問題を克服する必要がありそうです。







2020年7月23日木曜日

中国の戸籍制度と都市部における格差の関係




はじめに

 改革開放からの35年間で農村から都市へ移動した中国人民の数は何億という規模でした。しかし実際には彼らの大半はまだ都市によって提供される社会サービスを十分に受ける事が出来ておらず、不自由な生活をしていると言わざるを得ません。都市に住む人々の間に大きな格差があると言う事です。  
 確かに、都市部での工場労働をはじめとする近代的な労働形態が増え、そこに流れ込んだ移住労働者達の仕事はある意味”都市化”されたのですが、彼らの生活そのものは依然都市的と言うには程遠いものなのです。
 今回は中国の都市が抱えるこうした社会問題を中国特有の戸籍制度に焦点を置いて見て行きます。

中国の戸籍制度の歴史

 こうした格差が生じる主な原因として中国の戸籍制度、即ち住民登録制度があります。端的にいうと、この制度の下では中国の農村部の人々は住まいを自由に選べないのです。今の形の戸籍制度は1958年から始まりましたが、元を辿ればこれは11世紀の宋王朝の時代に制定された保甲(ほこう)制度と言う住民登録制度を起源に持ち、ベトナム、朝鮮、日本などのその他のアジアの国々も後にこれに似た制度を導入します。  
 保甲制度と現代の戸籍制度の違いは、後者の方がより厳格で制限が強いものであると言う事です。それもそのはずで、現代の中国の戸籍制度は共産主義の本家本元である旧ソビエト連邦で人民の移動を制限する為に用いられていた国内パスポート制度の仕組みを取り込んだものだからです。それに比べれば昔の保甲制度は移動制限というよりは国勢調査や徴税をその目的としていたので、制限も弱かったのです。
 かつての中国国民党政権下ではこの保甲制度が人々の住所を管理していましたが、内戦での共産党軍の勝利によってこれは廃止され、中華人民共和国による厳格な戸籍制度が新たに導入される事になったのです。

1958年からの戸籍制度と都市成長の抑制

 1958年以降はこの制限的な戸籍制度によって各中国人民が登録住所を割り当てられました。そして一旦割り当てられると、この登録住所を変更することは非常に難しかったのです。つまり住む場所がほとんど固定されてしまっていた訳です。 
 こうして戸籍制度が中国人民を二種類に分類するようになります。この二種類とはつまり農村の人民と都市の人民の事です。毛沢東の時代には、この戸籍制度が特に厳格に強制されており、田舎から街へ移動する事はほとんど不可能でした。そして登録住所以外で仕事を得る事も非常に難しかったのです。つまり農村の農民は定められた場所でずっと農業に従事するしかなかったという事です。  
 実際に中国ではこの戸籍制度のせいで1960年から1978年の間に全体に占める都市人口の割合が20%から18%に低下する事になります。こうして1960年代と1970年代に都市成長を抑制した事は、現在の中国の農村人口が世界第2位の経済大国とは思えないほどに多い事の主な原因とされています。

1980年代の戸籍制度の弱体化

 しかし、こうした強制的な戸籍制度も徐々に衰退する事になります。1980年代に入り、海岸沿いの都市群のあちこちに工場が建設されるようになり、それらが都市周辺の田舎から労働者を吸い込み始め、労働者の移動が本格化したのです。そしてこうした労働者の都市への流れは次第に都市周辺からだけではなく、そこから何百キロも離れた地方からも起きるようになります。
 国はこうした労働者の移動を奨励していました。何故なら当時は改革開放時代という時代背景もあり、役人達は中国の経済成長を彼らの目標に掲げていたので、もはや古い戸籍制度などで労働者の移動を制限する事は国益にそぐわなかったからです。

今尚残る移住労働者に対する制限

 こうして労働者達は、1960年代、1970年代に比べれば随分と自由に農村から都市へ移動できる様になりました。しかし、問題はまだありました。彼らは都市への移住の際に彼らの家族まで連れて来る事は出来なかったのです。移住労働者の家族は相変わらず農村で暮らさなければならなかったという事です。何故なら役人達が人口増加による都市のスラム化を恐れ、労働者達がその家族まで連れて来る事を許可しなかったからです。  
 この反動からか、1990年代と2000年代には都市へ無許可で家族を連れてくる移住労働者が増加しました。勿論この場合、彼ら移住者家族は社会サービスを利用する事は出来ませんでした。つまり移住者家族が怪我や病気をして病院に行っても医療処置を受ける事はできず、またその家庭の子供達は地元の公立学校に合法的に通うことも出来ませんでした。さらに、彼らは正規の住居を借りたり購入したりする事も困難でした。従って近代的とは言い難い劣悪な住居に住むしかなかったのです。 

まとめ

 現代の中国の戸籍制度とそれが労働者達の生活を如何に拘束して来たかを見てきました。
 1950年代から始まった強制的な戸籍制度は1978年末からの改革開放と同時に徐々に衰退していきます。1980年代になって都市部で工場が興ると農村の労働者達は自由に都市へ移動する事が出来る様になりました。しかし彼らは家族まで連れて来る事は許可されませんでした。このせいで1990年代、2000年代に都市へ無許可に家族を連れてくる労働者が増え、それに伴う移住労働者家族の生活水準の低さが問題になりました。
 こうした都市における根強い格差がしばしば中国国内の人々が中国の都市化を”部分的な都市化”と呼ぶ主な理由なのです。








2020年7月21日火曜日

中国の都市化の実態:部分的な都市化の問題




はじめに

 以前、中国の都市人口が改革開放(1978年末)以降如何に急速に増加してきたかについて見ました。中国都市部における1978年からの35年間での5億5,900万人の人口増加というのは確かに他の国において前例が無い規模のものです。
 しかしこれだけの数の人口が高層ビルやマンションが林立するような所謂都市部で本当に増加したのでしょうか?
 この記事では単なる数字の大きさに踊らされずに中国の都市化が実際にどんな問題を抱えているのかを見て行きます。テーマは中国における”部分的な都市化”です。

行政区画によって生まれる”仮の都市人口”

 まず注意しなければならないのは、”都市に住む人間”と言った時に、単純に何処までを”都市”と呼ぶかでそうであるか否かが決まってしまうという事です。実際に中国では、都市の範囲を決める境界線、即ち行政区画が拡大し続けています。こうして境界が広がるにつれ、もちろん農村のかなりの部分が”都市”に飲み込まれてしまうのです。世界銀行の調査によると、2000年から2010年の間では、こうした”農村の飲み込み効果”が都市人口増加の42%もに寄与しているという事です。そして43%が移住による増加、残り15%が自然増加という事です。
 つまり実際には農村の住民なのにそのエリアが都市の行政区画に含まれてしまうが為に都市人口として勘定されてしまっているケースが中国では結構顕著な訳です。
 この極端な例として四川省の重慶と言う市政機関があります。重慶は人口2,900万人です。この数字だけ見れば重慶を中国最大のメガロポリスと呼んでもいいでしょう。しかし実際にはそんなことはありません。何故なら重慶の人口の70%は実際には農村部の人口だからです。そしてこの都市の中核部分に住んでいるのは700万人程でしかないのです。つまり重慶に住む2,200万人はまだ”仮の都市人口”という事です。

中国の真の大都市(メガロポリス)はどこか

 まだ発展間もない中国の都市部には重慶の様に農村地帯がかなりの割合で含まれている場合もしばしばあることを見てきました。
 では中国の本当の意味でのメガロポリスとはどこなのでしょうか?それはご存知、上海です。上海の都市部人口は2,200万人であり、これは中国の都市の中でも最大の規模です。また、複数の都市が林立する特別な地域として広東省の珠江(しゅこう)デルタがあります。この都市圏の人口は現在では日本の東京大都市圏の人口を遥かに上回っており、およそ6,300万人にも及びます。珠江デルタはあの香港や深圳(しんせん)、マカオを含み、今では東京を超え世界最大の都市圏です。

衛星都市の存在

 学説によると、発表されている中国の都市人口自体には間違いは無いのですが、その分布の仕方は実際には主要都市の周りにかなり分散しているそうです。中国では北京や上海の様な大都市の周りに点在する衛星都市が数多く見られます。そしてこの衛星都市にかなりの人口が住んでいるのです。
 発展の目覚ましい中核的な大都市に住める人というのは、中国ではまだそれほど多くはなく、多くの人はそこから幾らか離れた衛星都市に住んでいるのが実態という事ですね。

都市住民の生活水準格差

 中国でしばしば一見華やかな都市化の暗部とされているのは、都市生活者達の生活水準が人によって大きく異なるという事です。そしてこの事は真の”部分的な都市化”としてしばしば問題視されています。
 豊かな人々は良いアパートに住み、公立学校、医療、年金制度などをフル活用して生活しています。その一方で恵まれない生活をしている人々も都市には多く存在します。彼らは同じく都市に住み、そこで働いていますが、こうした社会サービスを利用する権利が与えられておらず、大抵台所もトイレもない劣悪な住居に住んでいます。そしてこうした恵まれない人々が中国の都市人口のおよそ40%近くを占めており、これは数で言えば2億6,000万人にも相当します。

まとめ

 中国国内でしばしば”部分的にしか都市化されていない”と言われる中国の都市化の問題を見てきました。
 高層ビルの立ち並ぶ華やかな大都会には”都市人口”として公式に発表されている数字ほどの人口はまだ実際には居住していない事が分かりました。代わりに大都市の周りに点在する衛星都市に人口のかなりの割合が居住していました。
 そしてさらに都市に住む人々の間に存在する生活水準の格差もあることが分かりました。







2020年7月19日日曜日

1980年代の中国の農業




はじめに

 今回は1980年代に中国農業がどのように近代化されて行ったか、またそれによってそれまで困窮していた農夫達の生活がどのように改善して行ったかを見ていきます。


家族農業への立ち戻り

 1978年から1983年の間に、それまで非効率的だった中国の農業はその全体を根本的に改革する事になります。”世帯責任制”と言う制度が導入される様になったのです。これは即ちそれまで国家が管理していた農地を農夫達に返還し、その家族に農業を経営させるという制度でした。何故この様な動きが起きたのかを説明しましょう。
 事の発端は中国東部の安徽(あんき)省の村でした。ここで困窮した生活を送る農夫の集団が秘密裏に集まって相談し、それまで自分達の自由を束縛していた農業共同体を解体し、また彼らの集団農地も小さな区画に分解してしまったのです。こうした農夫達の反乱は瞬く間に全国に広まりました。
 安徽省の党書記であった万里(ばんり)はこうした反乱がそれまで農夫達を苦しめていた人民公社をはじめとする農夫の組織化や国家による厳格な土地の管理の仕方に対する農夫達の不満によって引き起こされたと言う事に気付いていました。そこで彼はこうした反乱に対峙して農夫達の不満をかき立てるよりも、むしろ農地を農夫達自身に返還する事を後押しする事に決めたのです。四川省の党書記である趙紫陽(ちょうしよう)もこれと同じ政策をとる事にしました。  
 ここまでは地方の話ですが、国家レベルでも徐々に農夫達の生活を困窮から救い出そうとする動きが出てきます。1978年には共産党による農産物価格の引き上げもありました。さらに1980年になると首相になった趙紫陽が副首相の万里と共に人民公社を解体し、家族農業への立ち戻りを本格的に推進しました。その結果、1982年には農業共同体は全て無くなり、家族農家が彼らに与えられた農地を自由に耕作出来る様になりました。


農業への技術導入と農夫達の収入の増加

 こうした農業改革によって穀物を中心とした農産物の生産高は急激に上昇しました。穀物だけで言えば、その生産量は改革開放直前の1978年から1984年までの6年間で1.5倍に増加しました。その結果、農夫達の収入も1979年から1984年の間に2倍にも増加しました。また、農村にある世帯の一人当たりの貯金額は改革開放直後の1979年には実質0だったのが、1989年には300人民元にまで増えました。
 それでは農夫達はどのように生産高を上げ、豊かになったのでしょうか?具体的に見ていきましょう。彼らは1980年代を通じて彼らの育てる作物を多様化し続け、また近代的な技術を次々に農業に導入して行きました。それによって彼らの農業生産高と収入はこの10年間急激な増加を続けることになったのです。ここで言う近代的な技術というのは、具体的には化学肥料だったり、揚水機、小型トラクターや脱穀機などを指します。実は化学肥料については1970年代から徐々に使われ始めていたのですが、1978年末からの改革開放を機にその使用量は増加し、1978年から1990年の間に実に3倍に膨らんだのです。生産量が増大するわけですね。
 こうした生産高の向上を見ると、収穫量を高める為に必要な肥料や新たな農業用機械を如何に農夫達が積極的に購入していったかが分かりますね。そして今度はこうした購買意欲が農業に関連した物品の製造を担う工業を活性化していく事になります。
 この様に技術導入によって農夫達の生産高が増大し、それによって彼らの現金収入が増え、同時に彼らを囲む製造業も活性化して行ったのです。そして彼ら農夫の貯蓄も日に日に増える事になります。1980年代に中国の農村部ではこうした農業経済の奇跡が起きていたんですね。


郷鎮企業と農村地区経済の発展

 農夫達はこうして溜まったお金を当時の中国ではまだ生まれたてで資金も乏しかった製造関連企業(解体された人民公社の名残のひとつ)に投資する事が出来ました。そして同時に彼らは自分達の収入を補強する為に余剰労働力で工業などの農業以外の労働に従事するようになったのです。何故なら人民公社解体後は農夫達が従事する労働の種類を彼ら自身で決定する事ができたからです。こうした農夫達の収入や働き方の変化の結果、郷鎮(ごうちん)企業が生まれます。一言で言えば農村の小規模な工業化ですね。
 この郷鎮企業は農村の農夫達の収入を増加させ、またその余剰労働力を吸収し地域経済を活性化することを目的とした公共の企業です。つまり農夫達はこの郷鎮企業に投資し、それによってその経営を成り立たせ、同時にそこで働く事で農業以外によって別途収入を得る事ができたのです。そして彼らの住む経済区画もこの郷鎮企業によって工業化を遂げる事ができました。


まとめ

 1980年代の中国農業について見て来ました。まず趙紫陽首相と万里副首相による人民公社解体と家族農業への立ち戻り改革がありました。それ以降、農夫達個人による農業への技術導入とそれによる生産高の増大と農夫の収入増加が起きました。そうして豊かになった農夫達の資金で作られた郷鎮企業は彼らの住む経済区画の発展に寄与しました。 






2020年7月16日木曜日

中国の都市化と経済成長の関係  ~スマート・シティ化を目指して~




はじめに

 今回は中国の都市化が一般的な都市化の三段階、つまり”都市への人材引き寄せ効果(磁石効果)の段階”、”建設ラッシュの段階”、”スマート・シティの段階”をどのように経験してきたのかを見ていきます。


1979年~1999年:工場労働の本格化

 中国の改革開放時代におけるはじめの20年間、つまり1979年から1999年に起きた都市化は、農村から都市の工場に労働者が流れ込む段階である”磁石効果の段階”に該当します。この時期、農村部で自給自足農業で暮らしていた多くの労働者が農業から離れ、都市部へ移住して工場で働くようになりました。仕事が変わる事で彼らの収入は上昇したでしょうが、先進国のレベルに比べればそれはまだまだ低いものでした。また彼らの住居も主に工場またはその会社の寮でした。
 しかし、伝統農業から近代的な工業に仕事の場を移したこの労働者達の生産性が大きく向上した事は間違いありません。そして現に当時の中国の経済成長に貢献していたのは主に彼ら移住労働者達のこの”一大転職”による生産性の向上でした。実際にこれが1979年から1997年までのGDPの増加分の1/5もを占めていたのです。

1998年~2013年:住宅、インフラの建設ラッシュ

 1998年以降、中国の都市化はその第二段階である”建設ラッシュ段階”に入ります。その背景を説明しましょう。
 まず第一に1990年代に入って以降、中国では海外直接投資(FDI)導入などの経済改革による都市部での本格的な雇用の増加がありました。またそうした雇用を求める移住労働者達を規制する法律を中国政府が暗黙の内に緩和していました。その結果、農村から都市への労働者の移動が比較的容易に起きるようになったのです。実際に、都市人口の平均年間増加数は1978年~1998年の間では約1,200万人だったのが、1998年から2013年の間ではおよそ2,100万人にまで増えたのでした。都市部人口がこうして増加すれば、そこに住む人の住居、インフラの需要が高まります。
 そして第二の背景として、1990年代後半の都市部における住宅市場の民営化がありました。それまで国家によって所有・管理されていた都市部の住居が解放され、都市部の一般個人が自由に不動産を売買できる状態が整ったのです。これにより、都市家庭による住宅需要が高まりました。この住宅市場民営化によって空前の住宅建設ラッシュが起きる事になります。それは世界中の歴史を見渡しても前例の無い規模のものでした。
 そして第三の背景として1998年以降中国政府が都市に住む人々の生活基盤となるインフラの建設を国策として支援するようになったことがあります。ではこのインフラとは具体的にどのような物だったのでしょうか?具体的には仕事を求めて都市へ向かおうとする人々の移動を便利にする為の都市間高速道路や鉄道がありました。これによって農村から都市へのアクセスが容易になり、先述したように都市部への人口流入が一層促進されました。その他にも都市部の道路、地下鉄、浄水場などの建設が加速し、都市の機能をより高度なものに変貌させていきました。

2013年以降:建設ラッシュの終焉と先端都市(スマート・シティ)化への展望

 しかしこうした一連の建設ラッシュも近年の中国では徐々にかげりを見せ始めています。住宅の年間竣工数で言えば、1998年から2013年の間には3倍に増加しましたが、今ではそれはもはやピークを過ぎており、高い水準を維持できるのはせいぜい後数年で、徐々に下降線を辿る事になると考えられています。住宅建設がほぼ飽和状態なのですから、それと親戚関係であるインフラ建設についても恐らく同様でしょう。
 もちろん、これからもまだ都市部への人口流入はあるでしょうから、ある程度の住宅、インフラに対する需要は継続するでしょうが、だからと言ってこれ以上それらの建設数が増加する必要はもはやなく、年間建設量が下がってもそのレベルで十分需要を満たす事ができるという事です。
 この事から、今までと同様に住宅やインフラの建設に注力するだけではもはや中国の経済成長を促す事は出来ないと考えられます。この問題を克服する為には、中国が現在抱える都市群がニューヨーク(金融に特化した都市)やロサンゼルス(娯楽に特化した都市)、シリコンバレー(IT産業に特化した都市)に代表されるようなスマート・シティ、即ち特定の産業分野に秀でた革新的技術を備えた先端都市にならなければならないでしょう。つまり都市化の第三段階である”スマート・シティ段階”への移項が現在の中国の課題なのです。

まとめ

 改革開放からの35年間に都市部で何が起きたのかを見てきました。まず1979年からの都市部での工場労働者の急激な増加、それによる経済成長の加速が起きました。そしてその後1998年から都市部での建設ラッシュが起きます。そして現在、中国の都市はその完成形であるスマート・シティ化を目指して従来の物量による建設型発展の段階から抜け出しつつあります。今度は都市の技術力を研ぎ澄ます”内なる発展”に注力している事でしょう。






2020年7月15日水曜日

都市化と経済成長の関係




はじめに

 今回は1979年の改革開放以降、中国で本格的に進んだ都市化に伴う経済発展の様子を見ていきます。経済発展と言うと、地方から都市部に人が移住したり、都市部での雇用が生まれたりという事が想像できそうですが、それは具体的にどのような過程なのでしょうか。一般に経済発展には三段階あり、中国もこれらの段階を経て現在の近代的な都市国家に成長しました。各段階がどのような物だったのか見ていきましょう。


磁石効果の段階

 一般に、経済が産業型の近代化された経済になると、農産物に比べて付加価値の高い物を製造する場所である工場が都市周辺或いは都市内部に出来るようになります。こうした工場は地方で自給自足農業で働く人々が得る事ができる収入よりも高い賃金をもたらします。産業化の初期には、労働者はまだ農業で自給自足の様な生活をしていますから、こうした工場の比較的高賃金が彼らにとっては非常に魅力的になります。
 そこで彼ら農業労働者は農業を止め、都市部或いはその周辺に移住して工場で働くようになります。まるで磁石が砂鉄を引き付けるようなこの現象を都市化の第一段階 ”磁石効果の段階”と呼ぶ事にしましょう。 近代的な工場で働けば、それは伝統的な農業で働く場合よりも生産性が高いです。従って地方の農業中心の経済から都市部の産業型の近代的な経済へ労働者が大量に流れる事は、その国の急速な経済成長へ大いに貢献するのです。

建設ラッシュの段階

 そしてこの都市化がある程度まで進むと、それ以降は都市化に伴う建設事業が経済成長に直接貢献するようになります。その経済規模は決して小さなものではありません。ちなみにここで言う建設事業とは主に住居やインフラの建設の事です。この都市化の段階の事を第二段階である”建設ラッシュの段階”と呼びましょう。
 地方から都市部の工場に大量に労働者が詰めかける様になると、彼らの生活の為に当然、住居や道路、上下水道、電気、電信サービスの整備が必要になります。こうした住居やインフラの建設には新たな労働者が必要になりますので、そこに雇用が生まれます。また、同時に建設資材である鋼鉄、セメント、ガラス、アルミニウム、銅などの需要も大量に発生する事になります。この様にして都市化自体が経済成長を促進するようになるのです。
 しかし生産性という観点で見ると、この”建設ラッシュの段階”は”磁石効果の段階”ほど効果がありません。建設事業が増えても、それよって生産性の向上が起きる事はあまりない訳です。何故ならそうした仕事をするのは従来も建設の仕事をしていた人達だからです。つまり労働の質が変わらないんですね。逆に先述の”磁石効果の段階”では大量の労働者が地方から都市に流れ込み、そこで今までと異なる付加価値の高い物づくりに従事するようになるから生産性が大きく上昇します。これらの事から経済成長という意味ではこの第二段階は第一段階よりも質が低い事に注意しなければなりません。 
 それでも暫くの間はこの住居、インフラの建設が投資率(利回り)やそれによるGDP成長を押し上げてくれます。

スマート・シティの段階

 ”建設ラッシュの段階”を経て一度都市に近代的なインフラが整備されれば、それらの都市はまるで人体で言うところの心臓のように、生命力を外へ向けて送り出す経済の一大中継地になるでしょう。何故なら整備された都市に高度な技術を持った労働者が集まり、その高密度な集合がいつしか特定の産業における知的なネットワークを形成し、そうした”特化”によってその都市の生産性を一層高めるからです。  知的ネットワークが形成された都市という事でこの第三段階を”スマート・シティの段階”と呼んでもいいでしょう。
 このスマート・シティについて具体的な例を見ていきましょう。 ロンドンやニューヨークは金融に特化した都市です。 ロサンゼルスなら娯楽に特化した都市と言えます。 サンフランシスコからサンノゼまでのシリコンバレーなら技術に特化していると言えるでしょう。全世界の経済成長も大半はこうした”知的な”都市から生み出されているのです。

まとめ

 都市化について三つの段階を見てきました。中国の改革時代のはじめの20年、つまり1979年から1999年に起きた都市化はこれらの内”磁石効果の段階”に該当します。 この時期、中国の農村から都市部へ多くの労働者が移住し、工場で働くようになりましたが、それによる収入はまだ低く、住居も工場や会社の寮に住む事が多かったそうです。







2020年7月11日土曜日

中国の都市化の規模とスピード





はじめに

 この項では中国の都市化、つまり農村から都市への人口移動と都市開発、が如何に大規模で急速なものだったかをアメリカ合衆国など他国の場合との比較を交えながら解説します。
改革開放と都市化

 農村から都市への大規模な人口移動(移住)は、工業化が進む国において必ず起こる現象です。東アジアの一国である私達の国、日本もかつてそうでした。 都市部で工業化が興ると、 よりよい職業、教育、住居、安心を得たい、そして 移動や通勤にかかる時間や費用を減らしたい、という思いで皆が都市部に移動するんですね。 中国ももちろんこの例外ではありませんが、注目したいのは、中国の場合この人口移動現象が他の国に比べてより早くかつ大規模に起きたという事です。
 中国では 改革開放時代直前の1978年には、全人口の18%しか都市部に住んでいませんでした。そしてこの数字は工業化が始まった1950年代からほとんど変わっていませんでした。これは、当時中国に移動に関する厳格なパスポート制度があり、地方から都市部への人口流入が厳しく制限されていた事が大きな原因です。ちなみにこの移動制限制度は今でも中国に根強く残っています。また、1965年から1975年にかけての文化大革命における上山下郷運動、つまり都市部の若者(主に学生)に 農村部へ行きそこで働く労働者から様々な思想を学ぶ事を勧める運動、 もこうした農村部中心の人口形成の一因でした(1962年から1978年の間に1800万人もの都市部の若者が農村部に移り住みました。)。
 しかし、1978年から35年後の2013年には都市部の人口は全体の54%にも達しました。もちろん1978年末からの開放改革政策がこうした変化の大きな要因でした。この政策以降、海外直接投資の流入により都市部で膨大な数の雇用が生み出されたのです。そしてそうした新たな職を求めて農村から都市部へ大量の労働者が流れ込む事になります。その結果、2020年現在では都市部人口率は61.4%にも達します。

アメリカの都市化との比較

 前項で中国の都市人口占有率が35年間で18%から54%に膨らんだ事を述べました。ではこの都市化がどれほど急激なものだったかを、アメリカ合衆国の場合と比較する事によって把握してみましょう。アメリカにも急激な都市化の歴史はありました。具体的には、アメリカで1860年から1930年までの70年間で都市部人口率が20%から56%に膨らんだのです。
 これらの比較から分かるのは、中国はあの超大国アメリカのおよそ2倍の速さで都市化が進んだという事です。改革開放以降の中国の経済発展がどれだけパワフルだったのかが何となく分かりますね。
 また中国の場合、こうした都市化の早さだけでなく移動人口の規模も凄まじいのです。1978年から2013年の間に、都市部の人口は1億7,200万人から7億3,100万人に増加しました。つまり5億5,900万人の増加です。移動人口だけで当時のアメリカ全人口の2倍の規模という事です。それに比べて先述のアメリカにおける都市化によって都市部で増えたのは6,300万人程でした。同じ都市化でも人口の絶対数で見ると中国とアメリカでは桁が一つ違うんですね。

絶対数で見る中国の都市化の規模

 中国におけるこの大移動現象に規模の面で唯一匹敵するのは同様に巨大な人口を抱える隣国の新興国インドにおける移動現象です。インドの都市部では1978年から2013年の間に2億5,200万人の人口増加がありました。やはり人口の母数が大きい国は都市化による人口移動も大規模になると言う事でしょうか。
 ところで中国都市部における35年間に5億5,900万人の人口増加と言う、このとてつもない数字は具体的にはどんな規模なのでしょうか? 都市建設の視点でイメージしてみましょう。都市部で35年間に5億5,900万人、つまり平均して年間1,600万人の増加人口を全て都市内に収容し、その上で効率的に経済を回す為には、ニューヨーク大都市圏(人口約840万人)とボストン大都市圏(人口約830万人)を併せた規模の新たな都市を、35年間毎年作り続けなければなりません。一言で言えば毎年、巨大なメガシティ(都市圏人口が1,000万人以上の都市部)を一つ建設すると言ったイメージでしょうか。実際に、中国では2010年までにメガシティが15も出来ました。ちなみにこれらの内、最も大きい都市は規模の大きな順に重慶、上海、北京、成都、ハルビンなどです。ただしこの内重慶は、人口こそ2,900万人と中国の都市で最も多いのですが、その大半は実際には重慶の農村地帯に住んでいる為、建物など都市自体の規模はそれほど大きくは無いと言われています。

旧ソビエト連邦、韓国など他国の都市化との比較

 前項で見てきたように、絶対数(移動人口数)で見れば、もちろん中国の都市成長の規模はあのインドを含めて考えても比類がありません。 ただ、絶対数ではなく比率(都市部人口占有率)で見るならば、それはペースこそ速くはありますが、全く前例の無いものでもありません。 1978年から2013年における中国都市部人口占有率の36%の増加はそれと同時期の他の発展途上国の平均増加率のおよそ2倍に相当します。中国は当時の発展途上国の中でも例外的に目覚ましい都市成長を遂げた訳です。
 しかし、ここで発展途上国という枠を超えて視野を広げてみれば、中国と同じ早さで都市化を経験した(大半が地方に住む状態から大多数が都市部に住む状態に遷移した)国は他にもいくつかあります。例えば旧ソビエト連邦は1922年の建国後の最初の30年間に、1978年以降の中国と同じくらいの速さで都市化が進みました。
 ちなみに旧ソ連では1932年頃から人口移動管理が行われており、国の産業化を計画的に促進するためにモスクワ、レニングラード(当時)、キエフ、ミンスクと言った大都市を中心に居住許可制度並びに移動に関するパスポート制度が導入されていました。こうした移住制限は同じく共産圏である中国においても同様に行われていました。
 他の急激な都市化の例として韓国があります。中国やソ連に比べて随分小さい国である韓国も、1955年から1990年の35年間に 都市人口率が約25%からおよそ75%に膨らみました。ただ、絶対数で見るならば、これによる都市部の人口増加は2,600万人ほどであり、中国がたった2年間に経験する都市部の人口増加にすら満たないものです。
 このように都市部における天文学的な人口増加とそれに伴う超大規模な都市建設が起きたにも関わらず、中国と同規模の経済力を持つ他の国に比べると、中国の都市化はまだ未熟な状態と言われています。確かに日本の都市人口率92.5%と比べると、中国にはまだまだ発展の余地があると言う事かもしれません。
まとめ

 どうだったでしょうか。具体的な数字とイメージで中国における都市化の激しさを見てきました。人類史上最大規模の国内人口移動が20世紀後半から中国で起こった訳です。ここでのポイントはこの現象が1979年の鄧小平による改革開放以降本格的に起きた事ですね。この大規模な人口移動に際し、具体的にどのような産業が都市部で起きていたのかについてはまた次回解説しようと思います。







2020年7月7日火曜日

中国の農業と経済発展の関係




 今日では農業は中国のGDPの僅か9%を占めるにとどまります。一方で工業やサービス業はそれぞれ40%以上と、大部分を占めています。しかし、この様に農業のウェイトがかなり小さい現在になってもなお中国人民の半数近くが農村部に住んでいます。そして全労働者人口の1/3以上に当たる約3億人が今現在農夫として働いているのです。
 これらの数値から分かるのは、中国の農村部と都市部での貧富の差が未だに顕著であると言う事です。GDPにして僅か9%の農業に、全労働人口の33%もが従事しているのですから、それは当然ですね。そしてこの数字は、かつてこの国の経済を支えていたのが伝統農業だった事の名残なのです。
 それでは、中国が昨今言われる様ないわゆる経済大国になるまでに、この国の農業はどの様な役割を果してきたのでしょうか?話はおよそ70年ほど前にまで遡ります。

第一次五ヵ年計画と農業


 中国は1953年に脱農業化を掲げて第一次5ヵ年計画を始め、本格的に工業化がスタートします。そしてその際に軽工業よりも重工業(製鉄など)を優先していました。しかし、およそ20年に渡る悪政(大躍進政策、文化大革命など)の結果、1970年代後半になっても中国経済を支える大部分はまだ農業でした。1978年当時、農業は依然中国のGDPの37%を占め、労働人口の3/4近くが農夫でした。そして残りが重工業や軽工業で占められていました。
 こうした生産性の低い農業中心の経済から抜け出すために、中国はまず、それまで国が管理していた農地の民営化を推し進めます。そしてこの改革を発端として、1979年に毛沢東の後継者である最高指導者、鄧小平(とうしょうへい)が改革開放(中国の経済改革)をスタートさせます。それまでは国が農地を管理して、国が農夫達を人民公社と呼ばれる単位に組織化していました。改革解放後、国はその農地を農夫個人、あるいはその家族に分配して比較的自由に耕作できる状態を整えたのです。
 当時の中国はまだ農業国の側面が大きかったので、農業の効率化から経済改革が始まるというプロセスは、考えてみれば自然な事だったのですね。実は、農業から経済発展が始まり、徐々に工業化に遷移していくと言うこの経済成長モデルは、日本や韓国、台湾と言った東アジアの国々がかつて同様に辿った道のりでした。その為中国もこれらの国々にならって、工業化を成功させるために敢えて伝統産業である農業に力を入れたということです。


改革開放(1979年)以降の中国の農業


 1978年に中国共産党はそれまで都市部で安価に売られていた農産物の価格を引き上げました。農夫達の負担を軽減するためですね。ただ、自由な個人的農業経営については国はまだ非常に否定的でした。しかしその後1980年に趙紫陽(ちょうしよう)首相および万里(ばんり)副首相は共に人民公社を解体し、国家経営型の厳格な農業からより自由な家族農業に立ち戻る政策を強行に推し進めました。
 その結果1982年には国が管理していた農業集団は実質上すべて無くなり、家族農家が個々の農地を耕作する権利を与えられました。各家族農家が自分達自信の豊かさの為に比較的自由に農業を行える状態になったのです。それによる農産物生産高と農業収益は非常に大きなものでした。
 どれ程大きな収益だったのか、具体的に数値で見てみましょう。1984年までに穀物の生産高は4億トンに達し、これはその6年前(改革開放直前)の1.5倍の量に相当します。種脂や綿の生産高は年間成長率15%を維持し、肉の生産高は年10%の成長率でした。その結果、1979年から1984年の間に農村部の一人当たりの収入は2倍にも増加したのです。
 この様に、改革開放という政策がそれまで硬直していた中国の経済をまず農業の分野から急激に活性化していったのです。
まとめ

 中国の伝統農業はかつて国家によって厳格に経営されていました。その効率の低さから、第一次五カ年計画以降も工業化が飛躍的に進展する事はありませんでした。しかし1978年頃から農地や人民公社が急激に開放され、農業は家族経営化されていきました。それによって農夫達が自分達の豊かさを求めて積極的に農業を行うようになり、生産高が向上していきます。
 そして地方の農夫達がある程度豊かになると、今度は都市部を中心とした工業化、即ち農村から都市の工場への労働者の移動、が本格化するのです。そしてこうした動きが中国における本格的な都市化に繋がっていきます。





内戦後~改革開放直前までの中国の農業




はじめに

 今回は中国の農業がどの様に中国経済を支え、また時に国の政策に翻弄されてきたかを改革開放が始まる直前である1978年から共産党軍(現在の中国)と国民党軍(現在の台湾)との内戦終了直後である1952年にまで遡って見ていきます。
開放改革直前の地方の実態

 中国の経済改革、いわゆる改革開放時代に入る直前の1978年、中国の地方は人口過多で同時に貧困が蔓延していました。これはそれ以前の20年間に及ぶ悪政のせいでした。悪政とはつまり中国の農業・工業における生産量の増大を図った大躍進政策の失敗や、上山下郷運動を含めた文化大革命などの実質的に技術や経済を後退させようとする運動、またパスポート制度による地方から都市部への厳格な人口移動制限の事です。
 これらの政策の結果、1978年には地方人口が全人口の82%にまで達していました。都市部の人口が全人口のわずか18%という事です。実はこれは大躍進政策が始まった1958年よりも高い比率なのです。
 一方、内戦で中国共産党に敗れた国民党の蒋介石が逃げ延びた先の国である台湾ですら、1979年には国際的には中流階級の比較的豊かな国に成長していました。それは国民党との内戦に勝利した中国にとっては非常に悔しい実態だったでしょう。

大躍進政策の失敗

 前項冒頭で述べた様に、改革開放直前期における地方の貧困はそれまでの悪政によって引き起こされました。それまでの農業が非効率的に行われていたという事です。では大躍進政策を主とする政治的背景の中で中国の伝統産業の一つである農業はどのようにその形を変えて行ったのでしょうか。一言で言うとそれは国策的で非常に向こう見ずな農業政策になっていきました。具体的に見ていきましょう。
 中国共産党は国民党軍との内戦の勝利の後、毛沢東の指揮下で農地の地主を大量に粛清し、それら農地を3億人にも及ぶ小作農民達に分配しました。1952年になると、権力を増した共産党は小作農民から小さな組を組織するようになりました。その3年後、それらはさらに統合され、生産者共同組合である”合作社”になりました。
 そして共産党は個人ではなく集団で農地を所有することを国家の目標に掲げる様になります。そして1956年、今度は国家が農地を統制するようになり、国家によって経営される巨大な集団農場を作り上げました。1958年になると、毛沢東の大躍進政策の下で農業の生産性を高めることを目的に、農地の使用は厳重な国家の統制化に置かれる様になりました。こうして農地の個人所有が廃止されていったのです。
 そして農業集団から”人民公社”が組織されるようになり、それ以降、全ての農業はこの人民公社の下で行われるようになりました。この時代、個人で食料を生産することは禁止され、食べる事すら公共食堂で集団で行われなければなりませんでした。また生産高を高く見せるために農夫からの搾取も行われていました。
 こうした悪政による農業の非効率化の結果、1959年から1961年にかけて地方を中心に大飢饉が起きます。この飢饉による死者は共産党による推定1,400万人から学説による2,000~4,300万人にも上るといわれています。こうした政策の歴史的失敗の影響で1962年には農地の個人所有化が復活しましたが、人民公社は依然農村部の支配的な経済単位として存続し続けました。




都市部と地方の格差

 この人民公社はさらにより小さな団体や労働集団に分割されていました。そして各人民公社はなるだけ多量の穀物を生産するように指導されました。それらのノルマが人民公社下に置かれたより小さな団体に課されていったのですね。一方で野菜や商品作物を生産することはほとんど許可されませんでした。
 国はこうして大量に生産された穀物を安価で購入し、それを都市部の消費者の主食向けに安い価格で売っていました。都市部に暮らす人々が優遇されていたわけです。この影響で、実際に1959年には都市部の倉庫は食料で一杯だったと言われています。
 当時、国内での移動は許可証によって厳重な統制化に置かれていましたから、農夫達が地方から都市部に移動することは実際問題不可能でした。
 こうした都市優遇型の農業政策の結果は悲惨なもので、1957年から1978年の間、農夫達の収入は年1%程しか増加しませんでした。また農夫一人当たりの穀物の生産量は1955年から1978年の間で増加と言うよりはむしろ減少してしまったのです。つまり、政策としては農業の増産を進めたにも関わらず、結果としては農夫達の貧しさはほとんど改善しなかったのです。そして彼らは厳格なパスポート制度の為により良い仕事を求めて都市部の恵まれた環境に移り住む事はできず、生活が改善する事はなかったのです。

まとめ

 内戦後、はじめは農夫たちに農地を与えていた国家がいつの間にか農地や農夫を完全に管理するようになり 、農業によって国家の生産性を高めようとしました。しかしその結果、大飢饉に代表される様に国家が地方の農夫達の生活を完全に見捨てるような事態も起きました。これは改革開放という中国経済の夜明けにたどり着くための大きな犠牲という事かもしれません。今回は改革開放時代に入るまでのおよそ20年間について当時まだ未熟だった中国農業が辿った暗い時代を見ていきました。






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