2020年9月5日土曜日

天安門事件と都市中心の改革への立ち戻り




はじめに

 1989年6月に天安門事件が起こる直前の1980年代、中国都市部では政治改革への熱気が高まっていました。改革開放から一夜明け、中国の若者達は自分達の貧しさに気付き「中国も欧米や日本の様に豊かにならなければ」、と本格的に思うようになったのです。
 しかし中国に渦巻いていたのはこうしたプラスのエネルギーだけではありませんでした。食料価格に関する中国政府の政策や役人達の汚職に対する市民の不満が徐々に高まりを見せていたのです。  
 今回はこうした市民の不満が爆発した結果、天安門事件が起き、以後改革の重点が農村から都市部へ引き戻されていく様子を、当時の都市部世帯が直面していた経済的苦境を中心に見て行きます。

都市部収入と物価の上昇

 1980年代は農村世帯が豊かになって行った時代でした。その理由の一つが農産物を中心とした食料価格が急激に上昇した事でした。1978年の改革開放以降、中国共産党が農産物の価格を引き上げてきたのです。こうした政策はそれまで貧困が蔓延していた農村部を救済する為の措置でもありました。  
 食料価格の急騰は慢性的なインフレ(物価の上昇)を引き起こします。1988年後半と1989年前半にはこのインフレ率は20~30%という恐るべき数値を記録しています。  
 一方で都市部の収入もまた急激に上昇していました。実際に都市部世帯の生活水準は1980年以来目覚ましく改善してきましたが、同時に物価の上昇を目の当たりにしていた都市市民達は、自分達の収入に見合うだけの余裕のある生活が今後出来ないかもしれない事に不安と不満を感じていたのです。

学生達の就職難と私企業の雇用制限

 またこの時代、都市部の高校や大学を卒業予定の学生達は就職難に直面していました。彼らの就職先は主に国有企業や私企業になりますが、そのどちらも、雇用を改善するべく尽力していたにも関わらず、十分な職を用意できていなかったのです。特に私企業は政府からの規制が非常に強く、若者を自由に採用できない状況にありました。中国都市部の私企業は一般的に”世帯企業”と呼ばれ、この世帯企業は法律によって7人以上は雇用できない事になっていたのです。  
 1980年代、中国の若者の間ではこうした制限的な雇用条件に対する不満があったのです。

政府役人による汚職

 不満の温床は就職に関してだけではありません。政府に所属する役人達が行っていた汚職も大きな原因でした。中でも彼らが国家による低い計画価格で商品を買い上げ、大きな利益を得る事を目的にそれらを自由市場で転売する習慣には大衆からの怒りが向けられていました。高価格な自由市場でしか商品を購入できない一般世帯はたまった物ではありません。自由市場を舞台としたこうした不平等、不公平が、1990年代後半の住宅民営化が起きる10年前に既に起きていたのです。

天安門事件とその後の都市中心の改革への立ち戻り

 上記で述べた、物価の高騰、厳しい雇用環境、役人達の汚職などに対する若者達の不満は1989年春からデモとなって爆発し、北京を初めとした中国の諸都市の街を騒然とさせます。そして1989年6月4日には北京の天安門広場周辺で政府陸軍が抗議者集団と衝突し、彼らを追い払うと同時に何千人もの犠牲者を出します。有名な天安門事件です。
 この事件以降の数年間、政府の改革支持者達は改革の重点を農村から再び都市部に引き戻す事で合意する様になります。これは天安門事件によって、政府にとっての脅威が農村ではなく都市部に存在する事を改めて確認した政府高官達の結論でした。そして都市の不満を払拭する事とはつまり都市をより豊かに成長させる事でした。

まとめ

 政府に対する都市市民達の不満の原因が物価の急騰や就職難、そして政府の汚職にあった事を解説しました。そしてそうした不満・怒りが爆発した結果引き起こされた天安門事件によって、改革の方針が農村重点型から再び都市重点型に移行する様子を見てきました。ここから農村と都市との格差が再び広がっていく事になります。1990年代に入ってからのことです。






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